いつもながらの”行き当たりばったり”ですが…、今回は、当ブログ謹製の「インタラクティブ・モナドロジー(対話型単子論)」を説明して参りたいと思います。前回まで、「存在(それ自体)」や「恒真命題」等を論じていた訳ですが、依然として「それ(存在)をどう”認識”しているのか…?」という問題が残ります…。「コール・アンド・レスポンス(呼びかけと応答)的認識論」は、自分の考える”全く新しい認識論(存在論でもある)”になります。概念図は次のようになります。

 

     主体    ⇒   認識像    ⇐    客体

    モナドA 視線(光)(同一性) (反射)  モナドB

    (存在A)     (連続性)       (存在B)

              

上図の様に考えて頂ければ…という感じです。「モナドAを主体」「モナドBを客体」とすれば、”モナドA(主体)”にとっての”モナドB(客体)”とは、真ん中の「認識(像)」に過ぎません。「認識」自体も、「インタラクティブ・モナドロジー」では、「コミュニケーションの産物(同一性)」と考えてしまいます。つまり、視覚的には…、”モナドA(主体)”側にとっては、相手(モナドB・客体)側を、「像(認識像)」として認識しているに過ぎないのです。

 ここで改めて強調しておきたいのは…、何れにせよ…、我々は「コミュニケーション(対話)」を通じなければ物事を知り得ないということであり、これは所謂、五感(視覚・聴覚・臭覚・味覚・触覚)も同等のように考えます。…そういう意味での、(以前から述べていた)「”存在”と”存在論”とは別モノである…」や「理屈(存在論)では”存在”に辿り着けない…」でもあったのです。

 もう一つ強調しておきたいのは、主にヨーロッパ(西洋形而上学・西洋哲学)的文脈では、一般的な物事(ヒト・モノ…等)は「(=イコール)存在」と考えられ、極めて物質的、即物的に扱われる傾向にあります。しかし、この「インタラクティブ・モナドロジー」「コール・アンド・レスポンス」的概念では、その「物事(存在)」とは「認識像」でしかありません。言い方を変えれば、我々が知り得る「存在」とは、基本的に「”存在”の一面(コミュニケーション的認識像)」でしかないと考えるのです。近代的には…、その都度「理屈(論理)・言い訳・意味付け」的な言い掛かり(?)を「大義名分」として、「物事(ヒト・モノ…等)・存在」を支配しようとしてきたのです…。面白いことに、「インタラクティブ・モナドロジー」的に考えていくと、不思議と物事に対して”謙虚”になってくるのです。…何となく東洋的な感じもあり、やはり「パンドラの箱が開いた…」んでしょうか…。