ウィトゲンシュタイン「論理哲学論考 6.2」には、

 「数学とは論理学的方法である。数学の諸命題は等式である。故に、疑似命題である。」

とあり、これを「インタラクティブ・モナドロジー((対話型単子論)」で図に示していくと、

          

      左辺   ⇔    =   ⇔    右辺

    (モナドA)      等号      (モナドB)

(注)上図の”⇔”は、論理記号(実質等値)ではなく、”コミュニケーションのやり取り”という意味です。

 

となります。ウィトゲンシュタインはまた「論理哲学論考 4.243」で、

 「二つの名が記号しているのは同じ事物か、それとも二つの別な事物なのであるかを知りもしないで、それらの名を理解することが出来るであろうか?それらが意味していることは同じことであるのか、それとも別なことであるのかを知りもしないで、それら二つの名を含む命題を理解することが出来るであろうか?例えば、英語の単語の意味と、それと同じ意味のドイツ語の単語の意味とを知っているとき、両者が同じ意味を持つことを私は知らない、とは言えない。両者を互いに翻訳出来ない、とは言えない。とすれば、”a=b”のような、あるいはそれから導出された諸表現は、もともと要素命題でもなく、何か別なしかたで意義を持てるような記号でもないのである。」

 「論理哲学論考」で最も特筆すべきなのは、上記のような「同一性(等号=イコール記号)批判」です。当ブログ”オリジナル”の「インタラクティブ・モナドロジー(対話型単子論)」では、「”数学”とは”等号=イコール記号”とのコミュニケーション(対話)である」と考えます。つまり、”左辺(モナドA)”と”右辺(モナドB)”とのコミュニケーション(対話)ではなく、左右両辺とも真ん中の”等号=イコール記号”とコミュニケーション(対話)してしまっているということです…。これでは、コミュニケーション(対話)ではなく、”モノローグ(独り言)”ではないですか…。

 よく”営業部長”が部下に対して、「結果を出せ…!数字上げてこいっ‼」などと言うとき、これも同じように”数字(同一性)”だけを見てしまっている訳です。当然ながら、「”部下”や”お客様”の実情(意味)」は視野に入っていません…。となると…これは、”等号=イコール記号”による「数学的疑似命題」が、”現実的社会問題”になってしまっている…。

 本来ならば、”モナドA(左辺)”と”モナドB(右辺)”とのコミュニケーション(対話)が「インタラクティブ・モナドロジー」たる所以なのですが、やはり”ウィトゲンシュタインが示している”ように、「同一性(等号=イコール記号)」が原因で”ドつぼ(疑似命題)にハマってしまう”ということではないか…。それはつまり、「等価交換(同一性、等号=イコール記号)」を基本原則とした、現在の「資本主義経済」も同様である…ということにはならないでしょうか。