当ブログで展開されている、「ウイルス論理学」及び「インタラクティブ・モナドロジー(対話型単子論)」は、私自身の(ほぼ)創作による「概念(思考のフレームワーク)」です。このシリーズでは、主に「インタラクティブ・モナドロジー」を複数回に分けて解説してきました。ただ、全く新しい”概念”ですので、あれこれ説明するよりも、”(算数の)問題集を解く”ように、実際に色々当てはめて考察して参りたいと思います。

 例えば、「デリダの”脱構築・空虚の中心”をどう捉えるか?」…。

 

               (今・現在)

     単体A   ⇔   同一性・等価交換    ⇔  単体B

             恒真命題(非意義的な命題)

             空虚な中心・問題の消失

    

「インタラクティブ・モナドロジー」の視点は、基本的に”真ん中”ですので、デリダは、比較的解釈し易いように感じます。前回の「存在者と存在の問題」もそうですが、「(どうしても)認識のズレ(差異)が生じてしまう…」が問題な訳です。「インタラクティブ・モナドロジー」では、真ん中の「同一性・社会・外部」を、”コミュニケーション(対話)の中で二次的に成立する”と考えるので、この場合の「等価交換」も、実際問題として「等価交換のように感じる(ように見える)」ものでしかありません。そもそも、この「同一性」そのものが、コミュニケーション上に”載っかって”いるものなので、”ズレ(差異)が生じる”のは当然です。「モナド同士(ダイアローグ)」、「”モナド”⇔”同一性・外部”(モノローグ)」のコミュニケーションの連続性で「同一性(規則)」が生じる訳ですから…。

 恐らく…、デリダは、「今・現在・同一性」を思考の基準(中心)にしていたのではないか…、これは、非常に形而上学的な世界観です。これも一種の”メタ論理”にはなりますが、デリダの云う「空虚な中心」とは、元々「存在者と存在云々…」の話ではなく、「”今・現在”には(論理的には)問題・対象が無い」という事ではないだろうか…。これは「恒真命題(A=A)」的であり、具体的には「等価交換」になりますが、ウィトゲンシュタイン的には”論理的に非意義的”という事でもあります。つまり、デリダにとっての”論理性”や”対象(問題)”とは、既に”今・現在(中心)”のものではないということにもなります。これが、”デリダ的ズレ(差異)”ではないかと(勝手に)思ってるんだが…。