こんばんは☆桜子です。
昨日まで暑かったのに、今日寒い((((;゚Д゚))))
今回のお話は、私の事件以前の話です。病気の話ですが、これは避けては通れないので。
◎病気病気の人生◎
1985年8月。私は東京都内の病院で、計画帝王切開で生まれた。
計画帝王切開になったのには理由がある。
実はママン、お姉ちゃん出産時に妊娠中毒症に罹患し、長く入院して帝王切開で出産していた。(お姉ちゃんは里帰り出産で、高知県内の産院で出産)。
んで、ママンは性別を敢えて聞かないで『お楽しみ』にしていたのだが、お姉ちゃんの時に、聞いてもいないのに医師が
医『うん、女の子だね』と勝手に教えた(笑)
だから今回の病院では
マ『絶対に性別は教えないで下さい』とお願いしたんだと。
そんなもんだから、皆は勝手に
『上の子が女の子だったから、次は男の子だね!』なんて抜かしていたらしい(笑)
それでなんとなく、パパンとママンも『男の子な気がする』と思っていたようだ。
ママン側のおじいちゃんは『男の子なら鯉のぼりを立てにゃいかん』と張り切り、山へ木を切りに行った。
しかし、3歳違いのお姉ちゃんだけは
姉『わたしのいもうと(・∀・)』
と言っていた。幼児の勘ってすげぇな。
そんな周囲の期待を裏切り?私爆誕(笑)
おじいちゃんが切ってきた木は、その後丈夫な梯子として役目を果たした。
私の顔を見た叔父(ママンの弟)の第一声は
叔『お!コイツ垂れ目やな!』
もちろん、ママンに怒られたw
ところが、生まれた直後の検査で『進行性の血液疾患』と『進行性の肝臓疾患』が見つかった。名前は伏せるが、どちらも所謂『難病』。
パパンとママンには、ちょっとした不安があった。
パパンはお姉ちゃんが1歳の時に、スキルス性胃癌を患っていた。
幸い発見が早く、主治医が胃と転移が予想されるリンパ節を切除した&忙しい職場だったが、1年の病気休暇をくれた為、治療に専念出来た。
しかし、やはり強い薬で治療をしていた為
パ『もしかしたら自分の癌が原因?』
と思っていたらしい。
また、ママンはお姉ちゃん出産時に大量出血をし、輸血をしていた。
ママンもまた
マ『私の輸血が原因?』
と思っていたようだ。
だが、結果は『不明』。
医師からは『もしかしたら短命⋯大人になれないかもしれない』と宣告されたらしい。
この時点で、私と病気の人生は始まったのだ。
投薬治療に点滴、輸血に注射⋯。
もちろん私は覚えていないが、小さい時から薬を飲んで注射も沢山していたからか、幼少期から薬や注射で泣く事は無かった。これだけは覚えてる。
それよりも私が嫌だった事は『生活上の制限』だった。
まず出血したら止まりにくい為、激しいスポーツは厳禁。幼稚園の時から、外遊びは制限されていた。
運動会なんかは、全員リレーと怪我のリスクが少ない物(玉入れや綱引きやダンス)のみ参加。遠足も山登りはNG。林間学校や修学旅行のトレッキング等も、私のみ別コース。
更に感染症予防の為、プールは厳禁。もちろん温泉や銭湯もNGだ。
それ故に、ムカつくガキ共(私もガキだけどw)から幾度となく
ガ『サボりだー!』『顔色怖ぇーお化けみたい(笑)』『顔色ゾンビ』『チビ』⇽語彙力ねぇなw
と、からかわれていた。ムカつくわー( º言º)
幼心に『理不尽だ!』と思っていたが、騒いだところで制限が解除されるワケも無く。
んま
『じゃあテメェの身体と変えてくれよ(#゚Д゚)』
とは思ってたけどねww
それと遺伝もあるが、投薬治療や制限生活の影響で、身体は小さく未熟だった。これが後に人生を大きく左右させる事になる。
私は自分の性格を『稀に見る捻くれ者』と表現する事が多いが、絶対に幼少期からの体験がこの性格を作ったに違いない。仕方ないけど。
そのかわり両親から絵本を沢山プレゼントされ、お姉ちゃんと一緒に3歳からピアノも習わせてもらえた。(結構上等なピアノも買ってもらったw)
私はピアノと絵本に夢中になった。もちろん今でもピアノの本が大好き!!
あれから38年。確かに病気は徐々に徐々に進行しているが、医師の『大人になれないかも』宣告は乗り越えた。
続く\(*°∀°*)/