葬り去られた建国一等功臣
■ 出自の足かせ。
朝鮮王朝建国の一等功臣でありながら反逆者の烙印を押され、長く歴史に埋もれてきた悲運の革命家・鄭道伝。彼の悲劇は、その生まれから始まっていた。
鄭道伝は1342年、父・鄭云敬 (チョン・ウンギョン) 、母・兎 (ウ) 氏の間に長男として生まれ、慶尚北道栄州 (ヨンジュ) で育つ。代々地方官吏を務める家柄だったが、母方の祖母は僧侶が奴婢の妻と姦通してできた子であり、また母は名門貴族である兎延 (ウ・ヨン) のめかけの娘だったという説もある。鄭道伝の父は科挙に合格し一族としては初めて中央政界に進出するが、こうした複雑な出自は、鄭夢周 (チョン・モンジュ) ら新進士太夫の多くが名門の出身であったのと大きく異なる。これが後に、政敵から攻撃を受ける最大の弱点となり、鄭道伝が高麗王朝の改革にとどまらず、王朝を根底から覆す易姓革命夢見る背景となった。
■ 鄭夢周との出会い。
父の出仕とともに開京 (ケギョン) に移った鄭道伝は、父親同士が友人だった縁で当代の学者・李穡 (イ・セク) の門下生となり、鄭夢周らと共に学問ん納める。1362年、両親を相次いで失い、故郷に戻って3年間喪に服す。鄭夢周が彼に『孟子』を送ったのもこの頃で、鄭道伝はそれを1日1ページずつ精読した。
1370年、再び開京に戻った鄭道伝は成均博士 (成均館の教官) の職に就き、研究にいそしんだが、恭愍 (コンミン) 王の死とともに状況が一変。1375年、親元派の李仁任 (イ・イニム) によって官職を追われ、全羅南道羅州 (ナジュ) に流される。この時、鄭夢周らも流罪に処されたが、彼らが2年ほどで復帰したのに対し、鄭道伝だけは10年の長きにわたって配所、流浪の暮らしを余儀なくされた。
10年の在野生活で、鄭道伝は時に土地代も払えぬほど貧しい暮らしの中で、民の懸命さ、義理堅さに触れ、民こそが国の根本であるという「民本主義」の教えを実感する。易姓革命の夢は日に日に膨らみ、それを共に実現する君主の登場を切望する鄭道伝の前に現れたのが李成桂 (イ・ソンゲ) だった。
■ 李成桂を夢を託す。
1383年、鄭道伝は自ら李成桂を訪ね、この時から鄭道伝の「朝鮮建国プロジェクト」が本格始動する。李成桂が鄭道伝の革命の意志をどこまで認識していたかは分からないが、鄭道伝よりも李成桂と親交があった鄭夢周と違い、鄭道伝は単なる革命の同士ではなく、新王朝の盟主として最初から李成桂を捉えていたはずである。
それから9年後の1392年、李成桂が王に即位し、鄭道伝の易姓革命が完成する。李成桂は鄭道伝を誰よりも信頼し、鄭道伝は思い描いてきた理想国家の形を1つ1つ実現していった。しかし、その夢は李芳遠 (イ・バンウォン) によって絶たれる。1398年、李芳遠は第1次王子の乱を起こして鄭道伝を逆賊として葬り去り、代わりに彼の思想を受け継いで新王朝の礎を築いた。
肉体どころか名前さえ失われ、理想だけが残った鄭道伝。長らくその存在さえ知られることはなく、英祖、正祖代に彼の業績を見直す機運はあったが、結局1865年、26代高宗の世まで名誉が回復することはなかった。実に建国から500年近い年月が流れていた。
■ 鄭道伝の最期。
1398年8月26日、李芳遠は、鄭道伝、南誾 (ナム・ウン) らが王子たちを暗殺しようとしたと言いがかりをつけ、夜中、南誾のめかけの家にいた鄭道伝に奇襲をかける。一度は隣家に逃げたものの、その家の主人が「腹の突き出た者がうちに入ってきた」と芳遠に報告し、部下によって捜させたところ、寝室は隠れていたところを見つかり、外に出された。小刀を持ってはうように出てきた鄭道伝は、小刀を投げ捨て、芳遠に命乞いするが、芳遠は耳を貸すことなく、その場で首をはねた。鄭道伝は津 (ジン) 、游 (ユ) 、泳 (ヨン) 、湛 (ダム) の4人の息子がいたが、游、泳は異変を聞き付け助けに向かう土地で殺され、湛は自室で自害し、長男の津だけが生き残って代を継いだ。悲惨な最期を迎えた鄭道伝は、長くその墓の位置さえ分かっていなかったが、1656年に編さんされた『東国興地志 (トングクヨジジ)』にある「鄭道伝の墓が東川 (トンチョン) 県の東18里にある」という記述に基づき1989年に漢陽大学が発掘調査を行ったところ、頭だけの遺骨と高麗王朝初期の高麗白磁が出土した。高麗白磁は当時、宰相クラスだけが持つことができた物であることから、鄭道伝の墓である可能性が高いと関心を集めた。現在、遺骨は京畿道平澤 (ピョンテク) 市の山中に造成された鄭道伝の墓に埋葬されている。