続・鄭 夢周(チョン・モンジュ)【改訂版】。 | 咲くやこの花のキラキラパラダイス

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           今も尊敬集める信念を忠義の逸材

■ 若くに才を認められた傑人、

文人、学者として当代随一とうたわれた高麗の文臣。12世紀の高麗で権勢を振るった文臣・鄭襲明  (チョン・スンミョン)  の子孫で慶尚北道永川  (ヨンチョン)  で生まれる。地方貴族だった父・鄭云瓘  (チョン・ウングァン)  に幼い頃から漢文を習い、若くして経書  (四書五行など儒教の重要な文献の総称)  の読解などで才を認められていた。   

1360年に科挙の3つの試験でいずれも首位の成績を収め、名を馳せる。その名声を聞いてあいさつに来た鄭道伝  (チョン・ドジョン)  との出会いもこの頃といわれる。1362年、初めて官職に任命され、1367年には王朝の教育機関・成均館の博士に、そして1375年に成均館の最高責任者である大司成  (テサソン)  を務めた。鄭夢周が博士だった頃、まだ高麗には性理学の文献があまりなく、唯一紹介されていた『朱子集註』を彼独自の解釈で講義し、後にその内容の正確さを知った儒学者たちから敬服される。それについて、師匠で文臣の李稽  (イ・セク)  は、「彼に話は理に合わない言葉が一つもない」と賞賛。5歳年下の鄭道伝も、尊敬の言葉を惜しまなかった。

■ 外交にも手腕を発揮。
高麗に伝えられた性理学を見事に解き明かして学者として高く評価される一方、明や日本との外交でも手腕を発揮した。性理学の教えに従い、臣下としての名分を守るため、明に6回、日本に1回、命懸けの外交の任務を果たしたのである。
親明か親元で別れた高麗王朝では、一貫して明に付くべきと主張。恭愍  (コンミン)  王死後の1375年には親元派の実力者・李仁任  (イ・イニム)  と対立し、流刑に処されたこともあった。流刑から戻った直後の1377年に日本に派遣され、倭寇の取り締まりと高麗人人質の解放を受け入れさせた。1384年#明との関係が再び悪化すると、朝廷は明皇帝・太祖の誕生日に合わせて鄭夢周を送る。彼の外交力もさることながら、政敵による鄭夢周排除の動きでもあった。しかし、鄭夢周はこの難問を盟友の鄭道伝と手を組んで見事に解決し、流刑に遭った高麗の使臣らの解放を実現。また、貢物を減らす交渉にも成功した。

■ 信念通し李成桂と対立。
文臣でありながら戦いにもしばしば同行した鄭夢周は、1380年、李成桂  (イ・ソンゲ)  による全羅道での倭寇討伐にも加わっている。1388年、明が鉄嶺  (チョルリョン)  の割譲を求めた際には、戦争をすべきと訴える崔瑩  (チェ・ヨン)  と対立し、外交にする解決を主張する李成桂の味方に付いた。威化島回軍も進んで支持しており、李成桂が昌  (チャン)  王を廃して恭譲  (コンヤン)  王を立てる際にも協力している。そうやってお互いへの信頼と絆を深めていった。
だが、鄭夢周が描いた改革はあくまでも高麗という枠の中でのことだった。高麗王朝への忠清を誓った彼は、李成桂による新たな王朝の成立に真っ向から反対。趙浚  (チョ・ジュン)  、鄭道伝、そして李成桂の排除までを狙い、工作を立てる。しかし、鄭夢周の動きに注視していた李芳遠  (イ・バンウォン)   は到底説得の余地がないと判断し、暗殺を決意。こうして鄭夢周は1392年、李芳遠の腹心・趙英珪  (チョ・ヨンギュ)  の襲撃に遭い、56歳の生涯を閉じた。


■ 九州の武将に感銘を与えた文才と人となり。

1377年に鄭夢周が日本へ渡った当時、高麗は度重なる倭寇の侵攻に悩まされていた。和心を図るために送った使臣も捕えられるか、辛うじて逃げ帰る有様だったという。鄭夢周が交渉役に推されたのは、彼の対抗勢力の仕業だったとも伝えられる。だが、鄭夢周は進んでこの難役を志願して日本へ渡った。九州で彼との交渉に臨んだのが、武将の今川貞世。歌人としても知られる今川は、鄭夢周の文才と博学ぶり、そして人柄にいたく感銘を受けたという。今川は足利幕府の代表として倭寇の取り締まりを約束し、高麗の捕虜も解放した。


 













鄭夢周



延日鄭氏





  
■ 今も韓国人には“忠臣" の代名詞。
鄭夢周と彼の詩「丹心歌  (タンシムガ)」は高麗時代の人としては珍しく、韓国人最もよく知られている人物と詩であり、学校の授業では必ず「鄭夢周と言えば、忠心」と覚えさせられる。彼の殺された場所には、「善地橋  (ソジギョ)  に彼の流した血が永遠に消えない」「彼の死後、橋の脇から竹が生えてきたため、橋の名前を善地橋から善竹橋  (ソンジュッキョ)  に改めた」という言い伝えが残るほど、鄭夢周の生きざまは多くの人に忘れられない印象を残したのだと言えるだろう。共に戦ってきた人たちとたもとを分かち、信念を曲げなかったことで李芳遠に殺された鄭夢周は、その李芳遠によって名誉を回復され、世宗  (セジョン) 代には早くも忠節の臣下として人からあがめられるようになった。鄭夢周に学んだ吉再  (キル・チェ)  など弟子たちは、後に朝鮮中期の士林  (サリム)  派へとつながっていく。また、現代でも、戦後の高度成長を故・朴正煕  (パク・チョンヒ)  大統領は、鄭夢周を「忠」と「孝」の象徴として国語と歴史の教科書に掲載するように指示したという。そのため今も、韓国人なら誰もが知る忠義の人である。
 
■ 團隠とは?
鄭夢周は周囲から、本名より号の團隠  (ボウン)  と呼ばれることが多かった。その意味は「團  (=畑)  に隠れる」 。世の中の名声にこだわらず、素朴な所で人生を送りたいという意味が込められている。号は、その人の生涯や思想の深さを表すもので、特に木、石、川といった不変の自然に例えるものが多かった。鄭夢周の親友、鄭道伝の号、三峯  (サムボン)  もまた、川の真ん中に立つ三つの峰の美しさを表していると知られる。

■ 團隠集。
鄭夢周は性理学に明るかったとされるが、それを文章として残してはいない。どうも長い文章より詩を好んだようだ。詩風は豪放で性格がよく表れているといわれる。詩想が生まれると、どこでもドアお構いなしに筆を取り出し書いたが、特に便所で良い詩を思い付くことが多かったようだ。せっかく書いたものも気に入らなければすぐに捨ててしまい、書いた数の割には伝わる数が少ない。鄭夢周の詩文は、最初1439年に息子たちによってまとめられ刊行された。現在9種の文集が伝わる。鄭夢周は外交でも活躍したため、何度も外国を往来したことから、当時外国人と取り交わした詩は、外交に関連する事実や文化交流が分かる資料としても価値がある。


■ 像。
■ 生家。

■ 墓所。






















團隠 鄭夢周先生 墓




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