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3代太宗の即位を内助した剛腕王妃
■ 頂点を極めるも家族は粛清に。
3代太宗 (テジョン) の正妃である元敬太后は、7代世祖 (セジョ) の王妃・貞熹 (チョンヒ) 王后、11代中宗 (チュンジョン) の継妃・文定 (ムンジョン) 王后と並び、政治的に優れた手腕を持つ朝鮮王朝3大やり手王妃として知られる。高麗末、文臣の閔霽 (ミン・ジェ) の娘として生まれ、18歳で李成桂 (イ・ソンゲ) の五男の李芳遠 (イ・バンウォン) と結婚した。朝鮮建国の年に靖寧翁主 (チョンニョンオンジュ / 王子の妻の称号) に冊じられる。1400年、夫の即位に伴い、静 (チョン) 妃となる。夫の即位を喜んだのもつかの間、太宗は妻とその外戚である閔家をけん制するたむ側室を増やし、彼女の強い性格も相まって夫婦の溝は深まり、その後、家族が次々と太宗の粛清に遭った。1418年、長男の褆 (ジェ / 譲寧〈ヤンニョン〉テグン) が廃位され、三男の祹 (ド/ 後の世宗) が世子に冊封されると、兄弟間の争いに発展することを案じて最後まで反対した。同年、太宗は忠寧大君に王位を受け渡し、閔氏には受け渡し、閔氏には厚徳 (フドク) 王大妃の称号が与えられた。1420年、閔氏は太宗より2年早く、56歳でこの世を去った。
(ヘンジュ) 奇氏と姻戚関係にあった。成均館の司成 (サソン) を務めていた閔霽は、1382年、16歳で成均館に入学してきた李芳遠に目を付けた。新興武人勢力の李成桂の息子なら、自らの政治パートナーにふさわしいと考え、2歳年上の娘と結婚させた。翌年、李芳遠は科挙に及第し政界に進出していった。閔霽の読み通り、李成桂の大成とともに閔家も勢いを増した。李芳遠の即位後、閔家の息子4人が次々と粛清され一時家門は危機に瀕したが、元敬王后が33歳で出産した忠寧大君 (世宗) の代で再び盛り返し、19代粛宗 (スクチョン) の後妃である仁顕 (イニョン) 王后、26代高宗 (コジョン) の正妃・明成 (ミョンソン) 皇后などを輩出している。
■ 夫を窮地から救った女参謀。
鄭道伝 (チョン・ドジョン) が私兵廃止を強引に推し進めた時、李芳遠は武器を全て焼却したが、閔氏は一部を自宅に隠し持っていた。1388年、太祖が病に伏した際、芳碩 (バンソク) を擁立したい鄭道伝は夜間、理由を作って全王子を王宮に集めた。だが「鄭道伝が反乱を企てている」と李芳遠の家に密告があり、閔氏は夫を呼び戻した。この時、彼女の隠していた武器があったからこそ、迅速に鄭道伝の動きを未然に防げた (第1次王子の乱) 。第2次王子の乱でも、同腹の兄との争いに引け目を感じている李芳遠に、よろいを着せて大義を説明し背中を押したといわれている。
■ 閔氏けん制のために作られた後宮制度。
閔氏の高い政治力と豪胆な性格は、太宗にとって王位を脅かす存在に映った。太宗は妻をけん制する目的で、後宮 (フグン) 制度を初めて法制化。河崙 (ハ・リュン) らに夏、殷、周と高麗の妃嬪や侍女の数を調べさせ、嘉礼色 (カレセク / 王家の礼式を管理する役所) を設置し揀択 (カンテク / 王妃や世子嬪を選ぶ行事) を実施させた。こうして最初に正式な側室に選ばれたのが、権 (クォン) 氏 (後の懿 (ウィ) 嬪) であった。この時、閔氏は断飲断食して号泣し、権氏の後宮入りを反対したという。この後宮制度は後に、王宮に関わる女性「内命婦 (ネミョンブ)」 を総括するシステムに発展。王の後宮にはそれぞれ品階が与えられ、宮女にも職務と品階が定められた。