李成桂も頼りにした才女
■ 高麗名家の娘。
高麗の高官、康允成 (カン・ユンソン) の娘として生まれた。李成桂 (イ・ソンゲ) の2番目の正妻。朝鮮建国時には、既に最初の正妻、韓 (ハン) 氏 (後に神懿〈シニ〉王后に追尊) が没しており、康氏が王妃となった。康氏の叔父・允暉 (ユンフィ) の子は、李成桂の伯父で双城総管府 (サンチョンソングァンブ) の武官を務めた李子興 (イ・ジャファン) の娘婿、つまり両家はもともとつながりのある家系だった。そして康氏の実家は王朝で権勢を振るう勢力。辺境出身という立場に限界を感じていた李成桂は、自分より20歳ほど若いその娘を2番目の正妻とし、有力者である康氏一族とのつながりを深めたかったのだろう。
康氏は知略に長けた女性で、夫を陰で支え続けた。落馬した李成桂を狙って鄭夢周 (チョン・モンジュ) が近づこうとした際、生母・韓氏の喪に服していた李芳遠 (イ・バンウォン) 呼び戻したのも彼女。また鄭夢周が殺され李成桂が激怒した時も、怒りを収めるよう成した。老いて衰えを感じた李成桂は、康氏をいっそう頼りにするようになる。
わが子を世子にするため鄭道伝 (チョン・ドジョン) ら功臣や李成桂までも動かした康氏。結果的にこれが王朝の分裂を生み、李芳遠による惨劇を招いた。だが彼女はその成り行きを見届けることなく、幼いわが子の将来を案じながら1396年に世を去る。李成桂は神徳王后の死をたいそう嘆き悲しみ、庵を建てて朝夕祈りを捧げたという。
李成桂