集賢殿の中核人物として学問振興に寄与
■ 若き学者たちを育成。
石城 (ソクソン) の県監 (ヒョンガム / 地方官) 、鄭興仁 (チョン・フンイン) の息子。家門隆盛を道教の神に祈り、授かったとされる。鄭道伝 (チョン・ドジョン) 門下の父から学び、16歳で成均館 (ソンギュッガン) に入学。諸書籍の講論で周囲を驚かせ、文章は、宰相の黄喜 (ファン・ヒ) や大提学 (テジェハク) の卞季良 (ピョン・ケリャン) をもうならせた。世宗 (セジョン) の師でもある鄭夢周 (チョン・モンジュ) 門下の権遇 (クォン・ウ) から儒教を学ぶ。この教えは、後に集賢殿 (チッピンジョン) の若い学者な引き継がれていく。1414年に19歳で文科に首席合格。官職に就くとすぐさま昇進し、太宗 (テジョン) の死後、複数の官職を経て、1424年、世宗の信頼を得て集賢殿に登用される。1427年に文科重試に首席合格すると、集賢殿直提学 (チッチェハク) の役を賜り、同時に崔萬理 (チェ・マルリ) と交互で世宗に講義を行った。33歳になる1428年には、集賢殿の実質的責任者である副提学 (プジェハク) に昇進。鄭麟趾の主導で、学官が16人から32人に増員され、経学、天文学、言語学など幅広い学問を取り扱われるようになり、専門分野ごとに学者が育成された。高い見識が評価され、1432年には従2品の芸文館 (イェムングァン) 提学に任命。この時点でまだ37歳だった。世宗の科学プロジェクトでは、世宗と鄭麟趾が理論・原理を説明。李純之 (イ・スンジ) が数学分野を担当し、 李蕆 (イ・チョン) の現場指揮の下、蒋英実 (チャン・ヨンシル) が機器を製作した。1435年、老父に孝行するため、一時、忠清道観察使 (チュンチョンドクァンチャルサ) なに就く。
■首陽大君を支持し領議政に。
世宗は訓民正音公布をスムーズに進めるため、1442年、各種事業を先導してきた鄭麟趾を芸文館大提学 (正2品) に就任させる。鄭麟趾は訓民正音を積極的に支持。1445年に訓民正音を初めて用いた朝鮮王朝の建国叙事詩『龍飛御天歌 (ヨンビオチョンガ)』を書き序文を記した。翌年には『訓民正音解例本』の編さんを主導、集賢殿の8人の学者と共に発刊。その間、天文歴法書『七政算 (チルチョンサン) 内編』など、多くの書物を編さん、刊行する。
その後、礼曹や吏曹の判書 (パンソ / =長官) を歴任、端宗 (タンジョン) 即位時には兵曹判書に任じられるが、政権を握るようになった金宗瑞 (キム・ジョンソ) との関係悪化により要職から退く。1453年、癸酉靖難 (ケユジョンナン) で首陽大君 (スヤンテグン) の参謀を務め、、靖難 (チョンナン) 功臣1等に策禄、左議政 (チャイジョン) に抜擢され、『高麗史』(1454年頒布) や、『世宗実録』(1454年完成) を監修した。60歳になる1455年、世祖の即位とともに領議政に昇進し、申叔舟 (シン・スクチュ) 、韓明澮 (ハン・ミョンフェ) ら共に政権の中核を担う。仏書刊行に反対して追放されたり、蓄財に明け暮れ批判を買うこともあったが、元老大臣として朝廷に仕え続け、成宗 (ソンジョン) 代の1478年、83歳で没した。号は学易斎 (ハギョッチェ) 。最初の妻と死別、左議政の李誠中 (イ・ソンジュン) の孫娘と再婚し、4人の息子をもうけた。次男・鄭顕祖 (チョン・ヒョンジョ) は世祖の婿。
■ 歴史に残る功罪。
世宗と文宗の遺命を無視し、首陽大君がわについて領議政に登り詰めた鄭麟趾。忠義に反するこの行為は、世祖の王位さん奪に反発して下野した勢力の士林派から痛烈に批判され、侮辱された。ところが、ハングル創製に関する研究な見直されるようになった現代では、鄭麟趾のハングル創製への貢献度を鑑み、評価が好転している。鄭麟趾の記した『訓民正音解例本』の序文に「正統11年9月上限」となっており、9月10月を陽暦に直した10月9日は、韓国で「ハングルの日」に制定されている。
■ 金宗瑞との悪縁
忠清道観察使だった当時の鄭麟趾は、世宗が金宗瑞の病気の妻に送った魚肉を、なかなか彼女にとどけなかっ。それ以降、鄭麟趾に対する心証を悪くした金宗瑞により、転々と左遷されている。国務会議に招集されなかったこともあるという。歴史書の編さんでも、衝突した。2人は『高麗史』と『世宗実録』の編さん作業の監修を担当していたが、金宗瑞の死後、その名は削除され、鄭麟趾の名で刊行されている。また鄭麟趾は、癸酉靖難後、奴婢に落とされた金宗瑞の嫁や孫娘を戦利品としてもらい受けている。