新旧勢力の対立から勃発した事件
南怡 (ナム·イ) の謀叛事件
■ 抗争の発端
第7代王・世祖 (セジョ) は、王位慕奪のクーデターに協力した韓明フェ (ハン·ミョンフェ) 、申叔舟 (シン·スクチュ) をはじめとする文臣を重用し、要職に就かせた。
こうした旧臣たちは政府の中心的存在だったが、咸鏡道 (ハムギョド) で李施愛 (リ·シエ) の乱が起こると、討伐において功績を立てた亀城君 (クィソングン) や南怡 (ナム·イ) などの若い王族、武臣の康純 (カン·スン) らを中心とした新進勢力が台頭する。世祖の寵愛を受けた新進勢力は旧臣勢力を脅かす存在となるが、その翌年の1468年に世祖が死去。第8代王・睿宗 (イェジョン) か19歳で即位すると、申叔舟、韓明フェら旧臣が院相 (ウォンサン) として国政を補佐し、再び大きな権力を握ることになった。
■ 抗争の行方
柳子光 (ユ·ジャグァン) の告発によってたちまち謀叛人に落ちた南怡 (ナム·イ)
睿宗が即位するやいなや、旧臣たちは兵曹判書 (ビョンジョパンソ) として軍事を統括していた南怡 (ナム·イ) を解任すべきだと進言する。王宮を護衛する兼司僕将 (キョムサボクシ) に降格された南怡は、すい星を見て「古いものを受け入れる兆しだ」とつぶやくが、これを耳にした兵曹参知 (ピョンソサムシ) の柳子光 (ユ·ジャグァン) は、睿宗 (イェジョン) に南怡が謀叛を企てていると告発した。柳子光も李施愛 (イ·シエ) の乱の功労者だが、庶子出身という理由で要職に就くことはできず、南怡を恨んでいたという。
謀叛の知らせを聞いた睿宗は、直ちに南怡とその側近たちを捕らえて尋問した。南怡の妾だった卓文児 (タクナコ) をはじめ、同僚の文孝良 (ムン·ヒョリャン) も拷問にかけられ、「南怡が領議政の康純とともに韓明フェらを殺し、亀城君を追放して自ら王になろうとしていた」と証言している。
仲間の証言と厳しい拷問によって追い詰められた南怡は「康純とともに兵士を連れて王宮に攻め込み、兵士たちを動員して偉業を成し遂げようとした」と謀叛の計画を認めた。3日後、南怡と康純、文孝良ら9人が車裂きの刑に処され、24人の側近が斬首された。
南怡が処刑された翌日、睿宗は柳子光、申叔舟、韓明フェらを功臣に封じる。こうして再び権力を握った旧臣勢力は勲旧派 (フングパ) と呼ばれ、世祖の王位簒奪に反発していた士林派 (サリムパ) と激しい主導権争いを繰り広げることになる。
16世紀に入ると、この事件を柳子光による捏造だと記す野史が出現。南怡は民間で英雄として神格化され、第23代王・純祖 (スンジョ) の時代にその名誉は回復された。
李施愛 (イ·シエ) の乱
亀城君や南怡ら新進勢力が台頭するきっかけに
1467年、世祖が中央集権政治に反発していた咸鏡道の豪族・李施愛が民衆を巻き込んで大規模な反乱を起こした。李施愛は韓明フェと申叔舟が乱を企てたと虚偽の情報を流し、これを信じた世祖は2人を投獄。その間に亀城君を総司令官に任命し、康純、南怡らが率いる3万人の討伐軍を派遣して反乱を平定した。世祖は韓明フェや申叔舟を釈放して重用する一方、反乱鎮圧で活躍した王族の亀城君や南怡らを寵愛し、要職に就けた。