老論を代表する外戚
■ 娘が世子嬪に電撃抜てき
豊山洪氏 (プンサンホンシ) の洪鉉輔 (ホン·ヒョンボ) の息子として生まれる。祖父の祖母が第14代宣祖 (ソンジョ) の娘・貞明公主 (チョンミョンコンジュ / ドラマ「華政 : ファジョン」のヒロイン) で、王家の血を引く高貴な家柄だ。とはいえ、洪鳳漢の代の家は貧しく、23歳で生員試 (科挙試験の小科) を経て下級役人として出仕するにとどまっていた。ところが31歳のとき、わずか9歳の次女 (後の恵慶宮 / ヘギョングン) が世子嬪に選ばれる。「白面書生が一晩で王室の姻戚になろうとは“禍”の元」。その不安は的中することになる。
娘の結婚と同時に文科に合格、あれよあれよという間にスピード出世した。もともと老論派 (ノロンパ) だったが、英祖 (ヨンジョ) の蕩平策 (タンピョンチェク) を積極的に支持し、英祖の側近に躍り出た。これに老論の重臣が黙っているはずがなく、老論内で分裂が起きた。さらに娘の洪氏より10歳も若い貞純王后 (チョンスンワンフ) が王室に入り、2つの外戚同士が対立することに。新興勢力の慶州金氏 (キョンジュキムシ) は、洪鳳漢の婿である世子の振る舞いを監視し、英祖に逐一報告し始めた。それでも洪鳳漢に対する英祖の信頼は厚く、1761年、49歳で領議政 (ヨンイジョン) に上り詰めた。在任中には、党派争いの是正、平等な人材採用など、時の急務である「時務6条」を提議し、英祖の政治改革をそばで支えた。
■ 思悼世子 (サドセジャ) の米びつ事件を傍観
一方、悩みの種は、奇行を繰り返す世子のこと。むこといえ、国のためにも世子の排除はやむを得ないと判断したのだろうか。1762年、世子が米びつの中で息絶えた後、洪鳳漢は英祖に、「殿下が決断できないのではと案じておりましたが、意を決してくださり頭が下がります」と話し、たたえた。世子が米びつに閉じ込められたとき、洪鳳漢は漢江で舟遊びを楽しんでいたという証言もある。
事件後いったん領議政を辞職するが、すぐに復帰。今度は世孫・サン (示へんに示) の祖父として再び英祖に重用された。ところが1770年、貞純王后の兄・金亀柱 (キム·グジュ) が背後で操っていた韓鍮 (ハン·ユ) の執拗な弾劾により失脚。翌年には官職をはく奪され、都を追われる。サン以外の王子を王位に就かせようとしている、と英祖の不信を買ったのが原因だった。
1776年に正祖 (チョンジョ) が即位すると、父・思悼世子の無念を晴らそうと、米びつ事件関係者の粛清が始まった。弟・洪麟漢 (ホン·イナン) による思悼世子や正祖への攻撃を黙認した洪鳳漢も、処罰の対象に。義父であり当時の宰相という道義的責任にとどまらず、英祖に米びつを差し出して思悼世子の死に加担したという嫌疑にまで発展した。娘で正祖の母の恵慶宮が正祖に哀願し処罰は逃れたが、罪に問われたまま翌々年、66歳で死去した。正祖の治世末期になると罪が解かれ、第26代高宗 (コジョン) 代の1899年、永豊府院君 (ヨンプンプウォングン) に追尊された。
思悼世子と正祖を攻撃した弟・洪麟漢 (ホン·イナン)
洪鳳漢の異母弟に当たる洪麟漢 (1722~1776) は、兄と共に英祖に寵愛された人物だ。だが強欲で、王の信頼をかさに着て傍若無人に振る舞ったため、私邸のあった安国洞 (アングクトン) をもじって “ 亡国洞 (マングクトン) の亡宰相 ” とも呼ばれていたという。米びつ事件を事件傍観した兄と違って積極的に加担し、思悼世子を攻撃した上、その後も世子を否定する僻派の急先鋒として立ち回った。王室の権力者・和綵翁主 (ファワンオンジュ) らと結託し、世孫 (=正祖) にまで無礼を働くようになる。左議政 (チャイジョン) 当時の1775年、めい (=恵慶宮) の必死の頼みも聞かずに世孫の代理聴政に猛反発。「東宮は老論や少論について知る必要がない。吏曹判書 (イジョパンソ) や兵曹判書 (ピョンジョパンソ) について知る必要がない。」(「三不必知説」) といって世孫を完全否定し、代理聴政の命が書き取られるのを身をていして阻止しようとした。こうした行為が、正祖即位後、一族の粛清につながったのは言うまでもない。洪麟漢は島流しの上、賜死。洪鳳漢の息子・洪楽任 (ホン·ナギム) も、正祖を暗殺しようとした罪に問われたが、追及の末無罪となった。恵慶宮が『閑中録 (ハンジュノク)』で無念を訴えた効果なのか、一族の罪は恵慶宮の存命中に解かれたが、洪麟漢だけは1858年まで解かれなかった。