■ 兄に命を奪われた悲運の王子
■ 書画に秀でた芸術家
世宗 (セジョン) 即位の年に、世宗と昭憲王后 (ソホンワンフ) の三男として生まれる。名前は榕 (ヨン) 。文宗 (ムンジョン) 、首陽大君 (スヤンテグン / 後の世祖 / セジョ) は兄。子を残せず10代に早世した叔父・ 誠寧大君 (ソンニョンテグン) の養子に入った。11歳で安平大君 (アンピョンテグン) に奉じられ、12歳で左副大言 (チャブデオン / 正3品) の鄭淵 (チョン·ヨン) の娘と結婚。後に2男1女をもうけた。他の王子たちと共に成均館 (ソンギュックァン) に入り、儒学を学ぶ。21歳の時、咸鏡道 (ハムギョンド) に鎮が新設されると、兄弟らと共に北部地方を管理する仕事に就いた。書、詩文、絵の全てに優れ、「三絶 (サムジョル)」と呼ばれただけでなく、伽耶琴 (カヤグム) など音楽の才もあった。特に筆は、朝鮮一の名筆の1人とされ、その名は中国の皇帝まで知れ渡り、使臣が来るたびに安平大君の書を求められていた。200点以上の書画を集めた収集家で、画家との交流も深く、安堅 (アン·ギョン) など芸術家のパトロンとしての顔も持つ。
■ 兄・首陽大君との対立
父の世宗が崩御し、兄の文宗代になると、政治でも頭角を現し始める。政治的基盤の弱かった端宗 (タンジョン) 代には、皇甫仁 (ファンボ·イン) 、金宗端 (キム·ジョンソ) ら重臣と接近して陰の実力者に台頭、首陽大君ら武将勢力と政治的に対立するように。首陽大君が謝恩使 (サウンサ) として明に行ったことで外交権を奪われたが、黄票政事 (ファンピョジョンサ) で人事権を掌握。北方の鏡城 (キョンソ) の武器を漢城 (ハンソン) に集めるなど武力も高めようとしたが、首陽大君により黄票政事が廃止され、実権を奪われた。この頃、次男の徳陽君 (トギャングン) 、妻の鄭氏 (チョンシ) が死去し、家族を相次いで亡くしている。
1453年、首陽大君は、金宗端ら重臣が端宗を操り人形にしているという名分を立て、兵を起こしクーデターを実行した (癸酉靖難 / ケユジョンナン) 。この時、金宗端が安平大君に届けた詩が、政変を起こすよう催促するものと解釈され、安平大君は江華島 (カンファド) に流される。流刑から8日後、兄・首陽大君により36歳の若さで賜死に処せられた。長男の宜春君 (ウィチュングン) をはじめ男子が処刑されたことで、子孫を残せなかった。端宗と同じく、名誉回復には長い時間がかかった。英祖 (ヨンジョ) 代の1747年に復官、1758年に祭祀を施されるようになる。号は匪懈堂 (ビヘダン) 、琅玕居士 (ナンガンゴサ)。
■ 当代一の名筆
高麗末から人気のあった趙孟頓 (チョウモウフ) の松雪体を倣い、そこに個性を加えたのが安平大君の字。残念ながら世祖が安平大君の作品を破壊したため、現存するのは石碑ばかりだ。世宗の陵である英陵 (ヨンヌン) 神道碑、曽祖父・沈温 (シム·オン) の墓標などに筆跡を残す。韓国内にあった唯一の直筆作品『小苑花開帖』は、2001年に盗難に遭い行方不明。安平大君の字を元に製作された銅活字を壊されている。桃源で遊ぶ夢を見た安平大君は、北小門の外 (現・鐘路区付岩洞 <プアムドン> ) が
桃源に似ているとしてそこにあづまやを建て、文人らと詩を詠んだ。あづまやは壊されたが、跡地の一角に残る『武源洞 <ムゲドン> 』と書かれた碑石の字が安平大君のものとされる。
北小門。