沈 温 (シム・オン)【改訂版】。 | 咲くやこの花のキラキラパラダイス

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ドラマ『大王世宗』より。






■ 太宗に粛清された昭憲王后の父。
高麗末に門下侍中  (ムナンジュン)  を務めた沈徳符  (シム·ドクブ)  の五男として生まれる。祖父の沈龍  (シム·リョン)  も死後、門下侍中職を贈られている名門一族の出身。高麗末に科挙に及第し、父と共に朝鮮建国に寄与。建国後
から本格的に官職に就き、要職を歴任する。安天保  (アン·チョンボ)  の娘との間に生まれた長女  (後の昭憲王后)  が1408年、忠寧大君  (チュンニョンテグン)  と結婚。王室の姻戚となった。1418年に世宗  (セジョン)  が即位すると王の義父となり、音川府院君  (チョンチョンブウォングン)  に奉じられ、同時に最高職である領議政  (ヨンイジョン)  に昇格した。同年、世宗の即位を知らせるため明に渡る謝恩使  (サウンサ)  の長に任命される。ところが太宗への不敬罪を理由に弟・沈ジョン(シム·ジョン /氵に正)  が兵曹参判  (ピョンチョチャンパン)  ・姜尚仁  (カン·サンイン)  と共に逮捕される。一度は事態が収拾したかに見えたが、沈温の渡明中に沈ジョンは処刑され、明から戻った沈温も連座となり義州  (ウィジュ)  で捕らえられた。その後、義禁府  (ウィグムブ)  で拷問を受けた後、水原  (スウォン)  で自決させられた。後に太宗と当時左議政だった朴ウン  (パク·ウン)  による陰謀であったことが明らかになり、文宗代に名誉を回復した。墓は京畿道水原市霊通区に作られ、墓碑の碑文は孫の安平大君が書いている。諡号は安孝  (アニョ)  。

■ 世宗の義父、沈温事件の真相。
太宗  (テジョン)  の外戚粛清の一環として有名な沈温  (シム·オン)  の獄事。ドラマ「根の深い木」でも描かれ、沈家の奴婢の息子だった主人公のトルボク  (チャン・ヒョク扮)  が、この事件に巻き込まれたた父親を亡くしてしまうところから物語が始まる。ドラマでは外戚を取り除きたい太宗が沈温を陥れ、無実の罪で処罰するが、果たして事件の真相はどうだったのだろうか?
問題とされたのは、「国の命令は1カ所から発せられるべき」という言葉だった。これは「上王と現王の二重権力はおかしい。権力は1カ所、つまり現王が全て掌握すべき」という意味で、まさに上王として君臨する太宗を非難する言葉にほかならない。
当時、正6品の兵曹佐郎  (ピョンジョジョジャラン / 今の国防部係長)  だった安憲五  (アン·ホノ)  という男が太宗に「姜尚仁  (カン·サンイン)  らが私的な場でそう言い合っていた」と告げ口し、これをきっかけに事件が始まる。 
姜尚仁は太宗の王子時代からの家臣で、太宗の即位にも貢献した腹従功臣  (功臣の随従者に与えられた称号)  の1人だった。1418年には従2品の兵曹参判  (ピョンチョチャンパン)  にまで上がっていたが、世宗  (セジョン)  即位後、軍事の報告を太宗に伝えず世宗だけに伝えてしまい、官職を剥奪され奴婢の身分に落とされていた。太宗はそんな人間を再び呼び戻し、尋問にかけたのだ。
最初は否認していた姜尚仁だが、過酷な拷問に耐え切れずついに罪を認めてしまう。そして、同じように語っていた人間の名前を次々と吐き、ついに「沈温もこの言葉に同意した」と自白する。
太宗は名前が挙がった人間をすぐさま処罰すると同時に、当時、中国に使節として行っていた沈温を国境地域まで行って捕らえさせ、都に連行して拷問にかけた。沈温としては青天のへきれきだったが、無実を証明したくても姜尚仁は既にこの世にはおらず、結局、拷問を加えられた末に罪を認め、死刑に処せられた。
一連の事件は、太宗が沈温を処分するためにでっち上げたシナリオと見る学者が多く、実際、後に無実として沈温は名誉を回復されている。例えば、世宗の即位後、太宗は沈温を44歳という若さで右議政  (ウィジヨン)  や左議政    (チャイジョン)  も飛び越し領議政  (ヨンイジョン)  に抜てきしているが、これは沈温を捕える口実を作るためのわなだったと考える学者もいる。確かに、外戚を警戒する太宗が自ら外戚に権力を与えるのはおかしく、かつて譲位を宣言してはその態度で臣下たちの忠誠心を試していた太宗なら十分やりかねない。
一方、沈温の立場を考えると、世宗の義父として婿が天下に号令する日を心待ちにしていたはずであり、二重権力体制に不満を抱いても不思議でない。酒席でそんな本音をこぼした可能性もあるのはでは、と考える人々も多い。