※ Wikipedia日本語版がなく韓国語版をupさせて頂きました。
■ 正祖末期の老論 (ノロン) 党首
老論僻派 (ノロンピョッパ) の仲間と他党をけん制
幼少期については明確な記録がなく、明らかになっているのは、42歳に文科に合格してからだ。王に直言刷る官職に就くが、厳格で過激な言論で何度も流刑になる。老論僻派金亀柱 (キム·キジュ) と親しく、共に洪国栄 (ホン·グギョン) を攻撃。正祖 (チョンジョ) 即位後に洪国栄の方が重用され、金亀柱が流刑になったことで、沈煥之 (シム·ファンジ) も下級役人にとどまる。洪国栄の失脚以降、1784年から要職に就き始めたが、南人や少論をけん制し、正祖の改革をほとんど否定した。
老論僻派の盟主として、1789年には右議政 (ウイジョン) 、翌年左議政 (チャイジョン) に昇進。正祖の両腕として活躍した蔡済恭 (チェ·ジェゴン) と金鐘秀 (キム·ジョンス) が相次いで他界し、沈煥之が朝廷の新たな顔になった。
華城 (ファソン) が完工し盤石な軍事体制が整うと、正祖はついに思悼世子 (サドセジャ) 復権に向けて動き出す。1ら800年、「思悼世子を死なせた老論僻派を許せないが、過ちを認めるなら先皇子の遺志に従い処罰しない」と発表 (五晦ヨン教 / オフェヨンギョ) 。
それでも僻派はなかなか折れないでいると、正祖は沈煥之らに最後通牒を突き付けた。正祖が急死したのは、その12日後だった。背中にできものが広がり、沈煥之らの指導下で治療が行われていたが、発病から1ヵ月足らずで逝去。水銀を燃した煙を用いた治療法だったため、後に水銀中毒による正祖毒殺説がまことしやかにささやかれた。
正祖の改革を白紙撤回
純祖 (スンジョ) 即位後、摂政を務める貞純王后 (チョンスンワンフ) から領議政 (ヨンイジョン) に指名された沈煥之は、正祖が在位期間24年を費やした改革を白紙に戻していく。僻派で塗り固められ、改革勢力が消えた朝廷では、蕩平 (タンピョン) の秩序が崩壊。天主教の弾圧を利用して、南人や僻派を大粛清するだめ出しも行った。正祖の作った壮勇営 (チャンヨンヨン / 国王護衛軍) を廃止し、奎章閣 (キュンジャガク) の機能と権限も狭められた。
77歳で死去すると貞純王后より丁寧に葬られるが、1805年、貞純王后の逝去後に政権が入れ替わり、実権を握った純祖の正妃の父・金祖淳 (キム·ジョスン) により先王 (正祖) の功績を破壊した逆賊だと訴えられた。その後、天主教迫害で罪なき人々を殺した罪などから官職を取り上げられた。
朝鮮を破滅に導いた金祖淳 (キム·ジョスン) 。
正祖は、信頼する臣下の一人、金祖淳を味方に取り込もうと、金祖淳の12歳の娘を世子嬪 (セジャピン) に内定。1次揀擇 (カンテク) が1800年2月、2次が行われたのは閏4月だった。ところが6月、最終揀擇を前に正祖が急逝。その後、僻派 (ピョッパ) が勢力を完全に盛り返し、時派 (ジッパ) の正妃を迎えることに僻派内では不満もあったようだが、沈煥之が「安東金氏 (アンドンキムシ) は忠誠心の厚い名家だから問題ない」と深く取り合わなかった。こうして1802年、金祖淳の娘は純祖の正妃・純元王后 (スノンワンフ) として迎えられた。その後、金祖淳一家は外戚として専横を振い、王権は地に落ちて朝鮮は滅亡へと突き進んで行った。
■ 拙宅ブログより