昭和の大名人・五代目古今亭志ん生は15歳のとき家出し、明治40年(1907年)にプロの噺家になって、三遊亭朝太という名前を師匠に付けて貰った。落語が大好きだから入門したのだが、博打や酒も大々好きなものだからいつも金がなかった。少しでも金が入るとすぐに酒や遊びに使う。金がなくとも、自分の持ち物は無論、師匠に借りた羽織まで質に入れて金に換える。結婚してからは女房の着物、果ては仕立て内職で女房が預かっていた他人の着物まで見境なく質草にした。方々に借金して返済しない。当然、借金取りに追いまくられるので、逃れるためしばしば地方回りをした。

朝太が20歳のとき、相棒と一緒に静岡県の浜松を借金からの逃避行兼地方回りをしていた。途中で無一文になってしまったが野宿する訳にもいかないので、予め "財布を預かっていた相棒が朝早くズラかり、朝太は一人置いてきぼりを食ったという言い訳" を考えて宿屋へ泊まり、しかも一升酒を飲んだ。翌朝、言い訳をしたが無銭飲食が許される筈もなく、駐在所に突き出され、浜松警察署送りとなった。1週間勾留されたのだが、その間留置場の中で朝太は一生懸命に落語の稽古をしたというから、放蕩しても落語には真摯に向き合っていたのだ。尚、そのときの担当検事が落語に関心ある人で、浜松の席亭に口を聞いてくれ、その席亭が朝太の宿賃を払ってくれた。それで運良く朝太は釈放されたのだった。

三遊亭朝太から古今亭志ん生を名乗るまでの32年間に、彼は16回も名前を変えた。それは借金から逃れるためだそうだ。身から出た錆でかくも極貧生活を送っていたのだが、それを表す有名なエピソードが以下の『ナメクジ長屋』である。

志ん生が柳家甚語楼を名乗っていた昭和3年(1928年)、「店賃も敷金も要らない電気・水道付きの六畳と二畳の長屋がある」という話を聞いた。「これは地獄に仏だ」と思った甚語楼は業平にあったその長屋に引っ越した。今日の住所で言えば墨田区業平1-7-2である。



その地名は平安時代の在原業平を連想させ、風流・風雅な土地と思わせる。実際、業平には在原業平を祀った在原神社があった。だが、うまい話には裏がある。そこは風流・風雅な土地どころか、元々沼地で、関東大震災以降はゴミ捨て場になっていた所だった。放置すれば不衛生なので、沼を埋め立てただけで、排水や衛生はお構い無しの長屋を建てた。一見しただけで寄り付かないか、寄り付いても二、三日もすると何処かに引っ越してしまうような代物だった。そこで、家主は甚語楼をカモにして店子を誘き寄せることを考えたのである。甚語楼はそのためのオトリ。だから店賃をタダにしたのである。

昭和3年当時のナメクジ長屋周辺の写真は見つからなかったが、明治40年当時(志ん生が18歳の頃)は以下の写真である。ナメクジ長屋は橋を渡って右奥にあった。



実際、相当酷かったようだ。『志ん生一代記』(結城昌治著・2019年小学舘)によれば、ジメジメしたその長屋では、昼間天井に張り付いて体を休めているおびただしい数の蚊は夕方になると一斉にそこら中を飛び回る。「ただいま」と言って家に入ると20~30匹もの蚊が口に入ってくるほどだったそうだ。

それと、毎日塵取りでさらわなければならないほどナメクジの大群が出る。しかも、10センチ以上と超巨大。強くて塩をかけてもビクともしない。気味の悪い声でピシッピシッ啼くのだそうだ。夜が明けると、ナメクジが這った跡はぬめぬめと光った。

あるとき、甚語楼は女房のリンに「こんなに(ナメクジが)取れるんだから、何とか料理して食えねえかな。なまこだってうまいと言って食うやつがいる。ナメクジも似たようなもんだ。三杯酢てえわけにはいかねえかい。ことによると、なまこなんかよりオツな味がするかも知れねえ」と言ってみたが、結局、二人とも「あんなものを食うのは嫌だ」となった。甚語楼はこのことを所属していた川柳の会「鹿連会」で次の通り詠んだ。

なめくじは 煮ても焼いても 食えぬやつ

何とも、貧乏が滲み出ている句ではないか(甚語楼は食べないで正解だった。2010年にふざけてナメクジを食べた19歳のオーストラリア人は、それが原因で8年後、広東住血線虫症に起因するさまざまな合併症を患って死亡したという)。

蚊やナメクジだけでなく、蚤、蝿、油虫、鼠も昼間から走り回った。大雨が降ろうものなら、ドブが詰まってドブ板が浮き上がるものだから、泥水が家の中にまで入る。床板すれすれまで水位が上がるのはしょっちゅうで、床上浸水することもあったので、柱や壁には水位を示すシミ付いていた。

そういう長屋で、甚語楼・リン(女房)・美津子(長女)・喜美子(次女)・清(長男・後の十代目金原亭馬生)の5人は7年も生活した。いくら貧乏と言え、そういう所でよく7年も堪えたものだ。甚語楼は自分の勝手放題をやっているのだからいいとしても、甚語楼が生活費を入れてくれないものだから内職と始末することで子どもと一緒に生き長らえた女房のリンはよく堪えたものである。尚、その頃は未だ次男の強次(後の古今亭志ん朝)は生まれていなかった。

ナメクジ長屋に住み始めた頃の甚語楼は貧乏だっただけでなく、噺家としても売れなかった。ボチボチ売れ始めたのは、3代目古今亭志ん馬を名乗ったナメクジ長屋時代後半になってからだった。上野鈴本の島村支配人が目を付けたのだ。恐らく、あの変幻自在な "志ん生の喋り" が形になり始めた頃なのであろう。それは入門から約25年後のことであった。