広島カープは、1950年の創立から75年目の昨日戦った西武戦が1万試合目だった。通算成績は4654勝4965敗381分け(勝率4割8分4厘)。こういう数字を見ると、以下のことに思いが行ってしまう。

球団が設立されたので早速ユニフォームを作ろうとなり、出来上がったユニフォームを見ると胸のニックネーム「カープ」は "CARPS" と刺繍されていた。誰かが「おい、"carp" は不可算名詞だぜ」、待てよ広島だから、「おい、"carp" は不可算名詞じゃけぇ」とでも指摘したのであろう。慌てて "CARP" にしたというエピソードがある。


そんな調子の創立1年目の成績は41勝96敗1分(勝率2割9分9厘)だった。酷い成績だが、楽天も設立初年度の2005年は38勝97敗1分(勝率2割8分1厘)だったから同じだ。只、原爆で廃墟と化した広島の市民・県人を元気付けるため広島カープを設立する情熱があり、広島の企業も金を出し合って球団設立にこぎつけたが、資金は楽天のようには行かなかった。

球団創立後2~3年は選手の頭数を揃えるのがやっとで、成績どころではなかった。広島県出身の引退間際の選手や他球団の今日で言う戦力外で補充した。また、ハワイへの日本人移民は広島県人が最多だったから(戦前移民1 世の24.1%),そのツテで野球の上手い日系米国人を探した。

その中の一人は、カリフォルニア生まれの平山智だった。1955年に入団し64年まで現役だった。身長は僅か160cmだが、俊足・強肩の外野手。私のお気に入り選手の一人で、よくラジオの実況放送を聞いたものだ。あわやホームランというボールをフェンスによじ登ってキャッチしたこともあった。当時の巨人・水原監督をして「優勝するためには、あの選手が欲しい」と言わしめた。


 

資金不足で選手の給料の遅配ということもざらだった。遠征費用がないので甲子園球場のスタンドの下で寝たこともあったそうだ。初代監督の石本は金策奔走で忙しく、多くの試合は巨人から移籍した選手兼助監督の白石が指揮を執った。球場の入り口に酒樽を置いて広島市民からの募金を集めたのはその頃である(樽募金)。



こういう背景の故に広島県人の圧倒的多数は広島カープのファンであり、熱狂的とも言われる。また、よく "市民球団" と言われるが、実際には広島カープは市営球団だったことはなく、広島市民が直接株主になっている訳でもない。

資金はその後も長期に亘って問題であり続けたが、初優勝した1975年以降は、武漢コロナの影響を受けた2020~2021年度を除き、"独立採算" の球団は常に黒字経営してきた。"独立採算" と言うのは、広島カープには親会社はないからである。

時々「親会社はマツダでしょう」と言われるが、それは間違い。最大の株主は全株式の42.7%を所有する広島カープ・オーナーの松田元氏(マツダ自動車の役員ではない)を始めとする松田家である。第二位は34.3%を所有するマツダ自動車だが、一般の株主と同じで、巨人に対する読売グループや阪神の阪急阪神ホールディングのように球団を宣伝媒体として資金提供する訳ではない。つまり、広島カープは松田家の私有球団で独立採算だから、利益を出し続けないといい選手も採れないのである。また、代表取締役の松田元氏は実質のオーナーで、サラリーマン社長ではない。