大毎、阪神、広島で計20年に亘って投げた若生智男氏(通算121勝)が6月3日に亡くなり、昨日千葉県船橋市で葬儀・告別式が営まれた(享年87歳)。合掌。



正直言って、私は若生投手の印象はそれほど強くはなく、「あー、そういう投手がいたよね」くらいである。だが、報道記事を読むと「そうそう、そういうことがあった」と付随することを思い出す。

1963年の〔大毎・若生 ⇔ 阪神・ソロムコ〕のトレード:なぜか私は外野手のソロムコを比較的よく覚えている。三振かホームランというイメージの外野手だった。



小学生の頃、広島市民球場で広島・阪神戦ダブルヘッダーを見た。そのときのオーダーなどは全く覚えていないが、当時の主力選手は以下の通りで、広島では古葉・森永・藤井・大和田、阪神では吉田・鎌田・藤本・ソロムコは確実に出場していた。

◎広島:平山、古葉、森永、藤井、大和田、田中、長谷川、鵜狩、 大石など
◎阪神:吉田、鎌田、藤本、ソロムコ、並木、村山、バッキー、渡辺など

スタンドから阪神の藤本を見て、私は「ふ~ん、歌手・島倉千代子が結婚するのはこの選手か」と思ったものだ。週刊誌か何か読んで二人は結婚することを知っていたのであろう。

また、第一試合だったか第二試合だったか覚えていないが、スタンドから阪神の先発バッキー投手に「バッキャロー!」という野次が飛んだ。私は子ども心に「上手い野次だなあ」と感心したものだ。「小さな大投手」と言われた広島の長谷川良平はどちらかの試合に先発した。

この年のトレードは〔若生 ⇔ ソロムコ〕よりも、4番打者とエース投手を交換した〔大毎・山内 ⇔ 阪神・小山〕の印象の方が断然強い。「何と大胆な!」と驚いたものだ。こういうのは、よほど強い球団オーナーがいないと実現すまい。大毎には「永田ラッパ」の永田雅一大映社長がいたので「さもあらん」だが、阪神のオーナーはどうだったのか。 いずれにしても、エースと4番打者を交換するようなトレードは、その後の日本プロ野球界であっただろうか(米国ではあるが)。

1963年と翌1964年のセリーグの順位は以下の通りだった。阪神はトレードが奏効したのか、63年には3位だったが、翌年は優勝している。尚、巨人のV9は翌々年の1965年からだった。




1974年の〔広島・安仁屋 ⇔ 阪神・若生〕のトレード。安仁屋は外木場投手と共に1970年代前半の広島を支えた二枚看板だったので、このトレードには残念な気もしたが、その後に池谷や佐伯などの投手が台頭したので残念感は薄れていった。



この頃の主力選手は以下の通り。広島の4番打者は、1966年~1972年の間ピークだった山本一義から1969年に入団した山本浩二に世代交代する過程にあった。阪神は山本浩二(広島)と富田勝(南海)と共に法政三羽烏と言われた田淵幸一が4番打者で、掛布雅之は74年に入団していたが、台頭してくるのはその3年後であった。

◎広島:山本(一)、山本(浩)、衣笠、ヒックス、三村、水沼、安仁屋、池谷、佐伯、外木場など
◎阪神:藤田(平)、田淵、遠井、中村(勝)、後藤、江夏、古沢、若生など

1974年の広島は、シーズンオフにジョー・ルーツが球団初の外国人監督になったこともあって(翌75年5月には退団して古葉が後継監督になるのだが)、〔安仁屋 ⇔ 若生〕のトレード以外にも〔広島・上垣内&渋谷 ⇔ 日ハム・大下〕および〔広島・白石&大石 ⇔ 日ハム・渡辺&児玉〕のトレードも実現させた。特に大下の獲得は、74年に最下位だった広島が翌75年に勝ち取った球団初の優勝のための布石になった。安仁屋は1975年から阪神でプレーしたので、現役選手としての優勝経験はない筈。




以上、若生智男投手の葬儀が営まれたという記事から五月雨式に思い出したことを書き記した。