過去に半世紀にわたって日本と歴史を共有してきた台湾においては、今日においても「大和魂」とか「日本精神」(リップンチェンシン)と言う表現で、忠誠・犠牲・信義・廉恥・礼儀・潔白・質素・倹約・尚武・名誉・情愛を重んじて(=武士道精神)日本人の『"公" に尽くす精神』を高く評価する人が少なくない。元台湾総統の故・李登輝氏はリップンチェンシンに基づいて「公」に尽くすため「我是不是我的」(私は私でない私である)の考え方で政治に携わった。

実際、武士道精神に基づく行動により徳川三百年の平和をもたらし、明治維新を実現せしめた。そこには死を賭して武士の道を歩む “葉隠れ武士道”(武士道とは死ぬ事と見付けたり)があった。「生きるとはいかに見事に死ぬか」と言う訳だ。だが、あらゆる「死」を非とする戦後においては、死の前提を除いた武士道精神とならざるを得まい。

そういう武士道を以て "公" に尽くす訳だが、その "公" とは何か。スポーツ・ゲームの後に観客席に落ちているゴミを拾うのも "公" だが、政治家や高級官僚にとって最も重要な "公" は『主権者たる国民の安全と繁栄』である。このことに鑑みて、以下の体たらくは何と嘆かわしいことか!

● 昨年11月、日本は中国が日本のEEZに不法設置したブイを(フィリピンがしたように)実力で撤去すべきだと参議院で迫った日本維新の会の議員に対して、上川外相は「国連海洋法条約には明文規定がないので、個別具体的な状況に応じた検討が必要で、可否を一概に答えるのは困難だ」と答弁。⇒ これは「何もしない」という意味の官僚言葉。

● 今月、靖国神社の石柱に落書きし放尿した後に出国した中国人に関し、上川外相は記者会見で「外交ルートを通じて中国政府に懸念を表明した」と述べた。⇒ これは、「外交的にウヤムヤにする」という意味の官僚言葉。

● 去る6月7日、機関砲を搭載した中国海警局船4隻が尖閣周辺の日本の領海に侵入したことに関し、林官房長官は「誠に遺憾であり、外交ルートを通じ厳重に抗議した」言う。⇒ 得意の "遺憾砲" を打ち上げただけで、何ら態度で表さない。



中国漁船が大挙して尖閣に来はじめたのは日中平和条約の交渉が大詰めを迎えていた1978年4月だった。テーブルの上では握手しようと言いながら、テーブルの下では日本を蹴りあげ中国である。対する日本の害務省、おっといけねえ、外務省はひたすら「相手を刺激してはけない」「波風を立てない」と卑屈な態度。中国の公船が初めて尖閣周辺に現れたのは2008年12月だった。

以来、中国の恐喝どんどんエスカレートした。そして2010年、海保の巡視船が尖閣付近で違法操業中の中国船に退去命令を発した処、中国船はあろうことか巡視船に衝突し破損させた。中国の恐喝は新たなステージに入ったのである。そこで日本は毅然とした行動に出るべきだったにも拘わらず、海保は中国漁船の船長を逮捕するも、当時の民主党政権の菅直人首相と前原誠司外相の意を受けた那覇地検は、同船長を処分保留で釈放してしまった。またも事勿れ主義。"公" に尽くす精神は微塵も感じられない。

これにより、中国は「日本は押せば引く国であることに味をしめ」、爾来、中国は日本に露骨な軍事行動と戦狼外交をするようになり、今日に至っている。

"日本の主権を蔑ろにする民主党政権" による "屈辱的な措置"。ここに当時の石原慎太郎都知事が発した憤怒の言葉のYouTubeがある。今一度、その言葉を噛み締めてみるべきだ。


音声↓
https://x.com/nihonpatriot/status/1798905217531965844?t=lFdN5xygFUKnFz-8SdxYPg&s=0

なぜなら、パー券裏金化は悪質なちょろまかしだが、中国人船長の釈放(=日本の主権にもろに関わること)はパー券裏金化とは比べようのない重大問題であり、後々まで響くボディブロー的大失態だったからだ。それは14年前に通り過ぎた事件ではなく、今日の問題でもあり続けている。

そして、こういう取り返しのつかないことをやった "民主党の看板を掛け変えただけの立憲民主党" に二度と政権を取らせてはならない。