一昨日、略2年半ぶりに開催された村上恵子さんの「三味線らいぶ2024」に行った。私が彼女と知り合いになったのは、彼女が出囃子やハメモノの三味線を演奏をしている落語会に私が略毎月行っているからである。更に今回は後述する "特別の事情" があった。

その前に、出演者とプログラムを紹介する。トーク・唄・三味線は主演の村上恵子さん。助演は三味線の上原潤之介さん(村上さんの師匠でもある)、パーカッションは、太鼓や当り鉦(チャンチキ、コンチキ、チャンギリ、四助などとも呼ばれる)を担当する長田伸一郎さんと小鼓担当の真幸さんである。曲によって雅 紫月さんが踊る。ゲスト出演として、噺家・柳家三語楼師匠が鳴りもの入りの演目を披露した。





最初の端唄「梅は咲いたか」の出だしの「梅は咲いたか 桜はまだかいな」くらいまでは割りと多くの人が知っているが、それに続く「柳 ヤ なよなよ風しだい 山吹や浮気で 色ばっかり・・・」以降を唄える人は多くはいまい。村上さんによれば、この曲は音の高低差が大きいので唄い難いのだそうだ。

次に端唄「深川節」に関連。私は深川に住んだことはあるが、「深川」の由来は考えたこともなかったし、全く知らなかった。それは、江戸がまだ町づくりを始めた慶長の初期に(1596年~1614年)、摂津国(現・大阪府)からから移住して、小名木川北岸一帯を開拓した "深川八郎右衛門" に因んでその一帯を「深川村」にしたことに始まるのだそうだ。深い川があった訳ではない。

深川は江戸城からは見て辰巳の方向にあるので、深川芸者は辰巳芸者とも呼ばれた。江戸時代には、吉原の花魁・芸者と深川芸者が双璧を為したが、前者の "きらびやかさ" に対し、後者は "粋" が売りだった。また、男っぽい風俗をしたり、名も女名前でなく、ぽん太や仇吉など男名を名乗っていたとか。そう言う粋な深川芸者のもとに猪牙舟で通う様を唄ったのが深川節。 



都々逸は江戸末期に初代の都々逸坊扇歌(1804年-1852年)によって大成され、寄席やお座敷で唄われた。本来は即興詞だったのだろうが、そうとばかり言っておられなくなってきているのだろう。

一昨日披露された都々逸は4曲だったが、そのうち以下の2曲は、私が昨年の秋に頼まれて作詞したものである。作詞に当たっては、春・桜・芸者を素材として想像を膨らませた。そう言う経緯があったので、村上さんは唄い終わった処で、私を観客の皆さんに紹介して下さった。これが冒頭に言う "特別の事情" である。



俗曲「和藤内」と言われてもピンとこなかったが、「トラトラトーラトラ」の下りで「あっ、あれか」と思った。これは所謂お座敷遊びだ。「トラトラトーラトラ」言って、芸者と客が狩人(和藤内)、虎、お婆さん(和藤内のお母さん)のいずれか表すジェスチャーをして、どちらが勝ったかを決めるのである。その際:

・狩人は虎より強い。
・虎はお婆さんより強い。
・お婆さんは狩人より強い。

一昨日は芸者はいなかったから、芸者役を勤めた踊りの紫月さんに対し、観客それぞれがジェスチャーをした。紫月さんに勝った人は2回戦に進み、同様にジェスチャーをし合う。最終的に勝った人は数名いた(私もその一人だった)。他愛ない遊び。一昨日は、1回戦で負けた人は "参加賞"、1回戦で勝ったが2回戦で負けた人は "敢闘賞"、2回戦も勝った人は(私を含め数名)"勝ったで賞" を貰った。後で聞いたら、3つの賞の中身はそれぞれ違うが、仕入れコストは同じとのこと。実際のお座敷では賞を出したりすまいから、負け方の罰は盃を干すのであろう。

端唄「品川甚句」は品川の遊郭を唄ったもの。その前に、甚句と言えば米山甚句、相撲甚句などいくつもある。そもそも「甚句とは何か」である。検索すると、甚句とはとして以下のことが書かれていた。

▪江戸時代に発生したと見られる。
▪歌詞は 7、7、7、5 で1コーラスを構成。
▪全国各地の民謡にこの形式が多い。

だが、1コーラスが 7、7、7、5 で構成されていると言えば都々逸も同じではないか。然らば、「甚句と都々逸の違いは何か」。この疑問にズバリと答えてくれる記事は見つけることができなかったが、私は取り敢えず以下の通り解釈しておくことにした(間違っているかも知れぬが)。

▪7、7、7、5の音節の歌謡は昔からあった。1800年頃に発祥した都々逸は比較的新しいもの。
▪甚句と都々逸を区別するのは音節構成でではなく、節回しと歌詞の内容である。節回しの違いは明確だが、歌詞の内容と言うのは、男女の情は「情歌」とも言われる都々逸として歌う方がしっとり感が出るということ。例えば、ソーラン節は「ヤーレンソーラン・・・」に続く歌詞本体部分は、都々逸と同じく綺麗に 7、7、7、5 になっている。しかし、歌詞の内容はニシン漁にまつわる状況であり、男女の情でないから都々逸にはそぐわない。

ニシン来たかと カモメに問えば
私しゃ発つ鳥 波に聞け


とは言え、ソーラン節の何番かの歌詞は以下の通りで、この部分だけなら都々逸で歌っても違和感はない。

今宵一夜は 緞子(どんす)の枕
明日は出船の 波枕 


甚句 vs 都々逸に行数を使い過ぎたので、ここで「品川甚句」に戻る。4年前に小学舘・江戸楽アカデミーが主催し、江戸の岡場所についての「大人の講座」を受講したとき(講師:平田秀勝・狛江市市史編纂室学芸員)、江戸時代の品川遊郭は僧侶が5割、武士が3割、町人が2割という客層だったと聞いた。また、客の武士は江戸に単身赴任している薩長の武士が多かったという村上さんの説明を聞いて、私は落語の「棒鱈」に出てくる以下の場面を連想した。

棒鱈:普段から酒癖の悪い熊五郎が寅吉と一緒に料亭で飲んでいるとき、隣部屋に入っている田舎侍が、「琉球へおじゃるなら草履は履いておじゃれ」などとマヌケな歌を歌ったり、芸者に好きなものを聞かれて「おいどんの好きなのはエボエボ坊主のそっぱ漬け(=蛸の三杯酢)、赤ベロベロの醤油漬け(=鮪のさしみ)たい」などと答えているのが聞こえた。酔っ払った熊は「何でぇ、ありゃ歌かぁ?」と言い、最後には「俺ちょっと芋侍の顔見て来る」と言い出すものだから、相棒の寅さんは「よせ! こういう所は他の座敷なんか覗くもんじゃねえんだ。隣で何をしようと隣の勝手だ。無粋なことするんじゃねえや。もう帰るぞ!」と止めにかかった。


棒鱈の武士は明らかに薩摩藩だ。だが、「品川甚句」の歌詞にある「だれちょる」や「違ちょる」の語尾「ちょる」は薩摩弁ではなく長州弁だから、偉そうに振る舞ったり、田舎者丸出しの長州男たちを揶揄しているのだろうか。

仲入り後の柳家三語楼師匠による落語は「軽業講釈」という演目で、私は初めて聞いた。以下の通り大層賑やかな噺だった。

ある村に様々な見世物小屋が立ち並んでいたが、軽業小屋の隣に講釈小屋が立っていた。講釈師が話し始めると、隣の軽業小屋からお囃子が大音響で聞こえてきて、講釈師の声がかき消されてしまう。それで、講釈師と軽業小屋の若い衆とがやり合うというもの。

三語楼師が語る講釈師の講釈 vs 村上さんが三味線で出す軽業小屋の大音響という掛け合いなので、「軽業講釈」は殆ど最初から最後までハメものが入る噺だ。「三味線らいぶ」の場には相応しい。だが、落語の方は始終大声を張り上げるから喉を傷めるのではないかと思ってしまう。

端唄「手古舞木遣り」。「手古舞」とは、芸者が祭礼に男装で金棒を引いて、神輿を先導することとのこと。唄の題名から浮かんだイメージは、深川芸者の手古舞と木場の木遣り。