昨日は桜が一気に開花した駅を出発し、稲荷町で開催された「正雀の会」へ行った。先月、林家正雀師匠にお会いしたとき予定を聞いたので、後日メールで参加する旨を申し込んでいたもの。
 

 
先ず稲荷町。駅を降りると昭和30年代までは盛んだったであろうという佇まいの店があちこちにあり、雰囲気を醸し出している。だが、「稲荷町」で連想するのは、生涯四軒長屋に住み続けた彦六師匠(八代目正蔵)のことだ。それ故、彦六は「稲荷町」と町名で呼ばれた。私は晩年の彦六しか知らないが、独特の声だった。正雀は彦六が70歳くらいのとき弟子入りしたので、孫みたいに可愛いがられたと聞いている。
 
彦六の住んでいた長屋は取り壊されて、現在はボックスカー4~5台を駐車できるコインパーキングロットになっている。その程度の面積のところに4軒あったのだから間口は随分狭かった筈だ。各戸1間半くらいだろう。前座の頃の正雀は毎日その2階建長屋へ通ったのだが、1階は狭い台所と6畳1間、2階は3畳と6畳くらいの2間だったそうだ。但し、2階には小道具の類が保管されていた。それにしても、あれ程の大物で著名だった師匠が、かくも狭い長屋暮らしだったとは!
 

 
正雀によれば、彦六師匠は随分律儀な人だったようだ。新宿・末廣亭などに行くときは通勤定期券を利用したが、それは落語という仕事で行くときだけ。私用で新宿に行くときは、その都度切符を買っていたという。
 
彦六の四軒長屋の隣にあった二軒長屋は今でも残っている。そこには九代目桂文治が住んでいた。彦六と文治は家族同様の付き合い。昨日行ってみると、かつて文治が住んでいた家には「翁家さん馬」という表札がかかっている。恐らく、彦六の四軒長屋と同じ頃建てられたのだろうから相当に古い。今でも人が住んでいるのだろうかと思ったが、後で正雀に聞いた処、そこは文治の弟子・翁家さん馬の家で、さん馬亡き後は今でも未亡人が一人で住まわれているのだそうだ。
 


さん馬の隣の家は「藤間流稽古場」の表札がかかっている。表札の木が新しいので、今でも踊りの稽古に利用されているのであろう。


 
彦六の四軒長屋および文治の二軒長屋のすぐ近くには銭湯「寿湯」がある。両師匠も入っていたに違いない。私は正雀の会に行く前に一風呂浴びることにしていた。「湯銭+タオル類(ナイロンタオル+ファエイシャルタオル+バスタオル)のセット」で510円。自販機でチケットを買い、それを受付に渡すとタオル類を出してくれる。2人の受付嬢に「昔は彦六師匠などが来てたんだよねー」と言ってみたが、彼女たちは「??」。中に入ると、ジャグジー、薬湯、露天風呂、洞窟風呂、サウナがある。なかなか気持ちがいい。
 

 
体を洗っているとき、首~大腿上部まで一面に彫り物をしたお爺さんが入ってきた。年の頃70代後半~80歳前後か。湯船で隣り合わせになったとき、「立派な彫り物ですね」と私が言うと、「いやいや若気の至りで」と言う。暫くの間会話をした。入れ墨は1度に直径10センチくらいの範囲しか彫れず、1日置いて彫らなければならないので、全部彫るのに半年かかったという。「彫って貰うときは痛いでしょう」と言うと、「まあ、若かったですから」。当時は粋がったお兄さんだったのだろうが、今では優しいお爺ちゃんだ。入れ墨をした人は公衆浴場等には入れない筈なので風呂から上がったとき、受付嬢に小声でそのことを言うと、「えっ、入れ墨の人がいたんですか!ここではわからないんです」と言う。確かに、受付は昔の風呂屋の番台と違って、健康ランドの受付と言ったところ。受付からは男女別の脱衣場は見えない。だが、しょっちゅう浴室内を見回わる寿湯の主人にはよくわかっている筈だ。まあ、昔からの常連だから目くじらを立てないのだろう。
 
銭湯を出て後、蕎麦屋で腹ごしらえすることにした。そこで、正雀の会に行くという顔見知りとばったり。その人は芝にある割烹居酒屋の主である。別の顔は全日本社会人落語協会の副会長。柳花楼扇生という高座名を持つプロ顔負けのアマチュア噺家である。先々月は、その割烹居酒屋で正雀の会があった。
 
さて、メインイベント「正雀の会」の会場は「一番太鼓」という店。中華料理屋というより、中華居酒屋と言った方がいい雰囲気だ。店の主は、料理の鉄人・陳健一から麻婆豆腐の作り方を教わった。小上がりに高座をしつらえ、テーブル席のフロアを片付けて20人強の観客席を作ってある。
 

 
正雀師匠の噺は「隣の男」、「茄子娘」、「かじか沢」の3席だった。落語協会は毎年新作落語台本を募集しているが、「隣の男」は昨年第1位の作品。原作には落ちがなかったので、高座では師匠が落ちをつけたとのこと。二席目の「茄子娘」も私は初めて聞いた。この噺は、師匠が二つ目のときに教わったそうだ。単純なストーリーなので二つ目では手に負えないと考え、当時はやらなかったという。最近になって「そろそろいいかな」と思うようになったそうだ。後で振り返るとなるほど単純なストーリー。だが、噺を聞いている間はそんなことは気づかなかった。
 
会が引けると、一番太鼓は打ち上げ会場に変身。師匠の乾杯で始まり、大いに食べ飲み喋った。師匠は、その後鈴木演芸場の高座があるので、ソフトドリンクを持って各テーブルを回る。私たちのテーブルに見えたとき、「師匠は歌舞伎などによく行かれるとのことですが、芝居や歌いの類を好きになったきっかけは何ですか」と尋ねたら、「おばあちゃんですね」という答え。実家がお店だったからか、師匠は小さい頃おばあちゃん子。そのおばあちゃんが大の芝居好きで、寝るときはお伽話の代わりに芝居のセリフを聞かされたそうだ。当時は意味がよくわからなかったが、いつの間にか芝居好きになっていた。三つ子の魂百まで。