今回は、タイトル通りひめゆり平和祈念資料館周辺を歩いて見つけた、ちょっと気になるものを、調べた資料とあわせて紹介していこうと思う。

 

本ブログの記事は、自身で調査した資料や実際に現地を訪れた際の情報をもとに執筆しています。

できる限り正確な情報を掲載するよう努めていますが、誤りや、こんな情報もあるよ!というものがありましたら、ぜひ教えていただけると嬉しいです。

1:ひめゆり祈念資料館の近くにある「謎の穴」

写真だと写りが悪すぎて「これ、どこ?」となってしまうかもしれない。

実はこの穴、資料館の入り口近くにある。花を販売している建物のすぐ後ろとトイレとの間をよく見てみると、なかなか大きな縦穴がぽっかりと開いている。

 

調べてみると、ひめゆり平和祈念資料館が発刊した『生き残ったひめゆり学徒隊たち―収容所から故郷へ―』には、この穴について次のような記述があった。

 

「第三外科壕近くにある縦穴から日本兵達が、米軍の缶詰や食糧らしき物を引き上げていました。この穴は、近くにある米軍幕舎のちり捨て場になっていた様です。」

『生き残ったひめゆり学徒隊たち―収容所から故郷へ―』85ページより

※第三外科壕というのは、現在ひめゆりの塔の立っている隣にあるガマ(自然洞窟)のこと。

 

簡単に言えば、当時この場所は米軍のゴミ捨て場として使われていたという。

同じく沖縄戦を取り扱った作品『木の上の軍隊』にも、敵兵の捨てた物を漁る場面が登場する。

当時は、不要になった物であっても、誰かにとっては貴重な物資だったのかもしれない。

 

2:儀間真一の顕彰碑

すでに碑にも説明が書かれているが、一応紹介しておこう。

これは、ひめゆりの塔周辺の敷地を寄贈した、沖縄系ハワイ二世の儀間真一氏を称えるために建てられた顕彰碑である。彫刻家の喜名盛勝氏によって制作された。

 

本を開いたような形をした御影石が印象的な碑だ。この造形には、人類がともに歩み寄り、世界の平和を実現していきたいという希望が込められているという。そのためか、碑には日本語だけでなく英文の説明も刻まれている。

 

ここまでの説明だけだと、「へぇ、そんな碑があるんだ」で終わってしまうかもしれない。

しかし、調べてみると、儀間氏がひめゆりの塔のために尽力することになった背景には、戦後間もない頃のひめゆりの塔周辺の状況が大きく関係していた。

そこで、当時の様子と儀間氏について、もう少し詳しく紹介していこうと思う。

 

(那覇市歴史博物館提供 1946年頃のひめゆりの塔前)

 

戦後間もない頃、ひめゆりの塔周辺には徐々に納骨堂などが建設されていったが、しかし、敷地は十分に管理されておらず、周辺は現在とは大きく異なる状況だったという。

 

ひめゆりの塔周辺には露店が並んでいた。中には壕の中に梯子をかけ、料金を取って参拝者に内部を見せる者や、参拝者を追いかけて花を売る者もいたという。さらに、住民や米兵が壕内を歩き回ることもあり、現在では想像しにくい、混沌とした状態になっていたようだ。

 

そんな様子を目にした遺族の中には、「私の娘の墓の中を踏み荒らしている」と、線香を手向けながら涙を流す人もいたという。

この状況に心を痛めたのが、ハリー・儀間真一氏だった。

戦後、占領下の沖縄では、エンジニアなど技術職のアメリカ人が駐留しており、彼も米軍基地でエンジニアとして働いていた1人だ。沖縄系ハワイ二世で、読谷村にルーツを持っていたという。

 

彼は、1951年頃、儀間氏はひめゆり学徒隊の引率教師の一人であった仲宗根先生のもとを訪ね、こう申し出たという。

「戦争で亡くなった乙女達を、いつまでも丁重に弔ってあげるべきではないでしょうか。私にできることでしたら、手伝わせてください」

 

儀間氏は知人や友人から寄付を募り、集めた15万円をひめゆりの塔周辺の土地を購入する資金として同窓会に寄付した。当時の15万円は、決して小さな金額ではなかったという。

 

しかし、土地の購入はそう簡単には進まなかった。

儀間氏は仲宗根先生とともに地主たちとの交渉を行ったが、土地の値上がりを見越して売却を渋る地主もおり、交渉は難航した。

そんな中、「せっかくの儀間氏の好意を」と、地元出身の同窓生である長嶺春氏が地主たちの説得にあたった。また、当時の真和志村長であった金城氏など、多くの人々の協力もあり、最終的にひめゆりの塔の敷地となる土地を買い上げることができた。

 

しかし、儀間氏の活動は土地の購入だけでは終わらなかった。

仕事を終えた夜にも現地を訪れ、自動車のヘッドライトを頼りに塔の周辺へ柵を設置したり、参道に小石を敷き詰めたりと、敷地の整備にも尽力したという。

1952年3月、儀間氏がハワイへ帰ることになった際には、同窓会から感謝の気持ちとして、玉那覇正吉氏が制作した肖像画が贈られた。

 

こちらのサイトに当時の儀間氏の写真や肖像像が載っています

 

現在では整備され、静かな祈りの場となっているひめゆりの塔だが、このように戦後間もない頃には管理面でさまざまな問題を抱えていた。そして、その環境を整えるために尽力した人々がいたことを、この顕彰碑は伝えている。

 

3:資料館の幻のガマ展示

調べている途中で、個人的にとても興味深いものを見つけた。

 

現在、当時ひめゆり学徒隊が勤務していた壕を直接見学できるものがいくつかあるが、伊原第三外科壕は資料館内に再現したジオラマがあるだけで、直接見学できる展示はない。

しかし、資料館が建設される当初、実は第三外科壕を展示する計画があったという…

 

1982年頃から始まった資料館建設計画。当時、資料館建設の総合プロデューサーを担当していた中山氏は「最大の展示物はガマ」と考えており、期成会でもガマ展示は大きな目標であった。

※期成会とは、ひめゆり同窓会が資料館建設に関する一切の業務を事業とする目的で設置した、資料館建設期成会のこと。

 

資料館は地下2階の構造で、ひめゆりの塔の真後ろに建てる計画であった。ガマと資料館を地下トンネルでつなぎ、最後の部屋で見学者が離れた場所からガマ内部をガラス越しに見るという展示方法を計画していたという。

 

ガマ展示について「ぜひ展示すべき」という声がある一方で、「そっとしておきたい」「人の手が入ることで壕の内部が壊れてしまうのではないか」といった意見も出された。

さらに県側からは、ガマの安全性や、ひめゆりの塔という慰霊の場としての尊厳性について問題が指摘された。

 

期成会は、ガマの安全性を確認するための地質調査を行い、展示実現に向けて何度も計画を見直した。また、ガマ展示を巡るシンポジウムなどを開催し、全国から展示の実現を求める署名も集めたりなど行なったが、1988年、県は資料館の建設を許可する一方で、ガマの展示は認めないという判断を下した。

その後、同窓会は臨時総会を開き、最終的にガマ展示を断念。資料館のみを建設することを決定した。

 

現在、私たちが見学しているひめゆり平和祈念資料館は、このような長い議論の末に完成したものでもある。

実は資料館が建設されるまでには、今回紹介した内容以外にも、さまざまな出来事があった。この話は調べれば調べるほど興味深いので、資料館建設までの詳しい経緯については、また改めてまとめてみたいと思う。

 

参考資料

「続ひめゆりー女師・-高女沿革誌続編ー 」

「特別展 ひめゆりとハワイ」

「生き残ったひめゆり学徒隊たち ー収容所から故郷へー」

「ひめゆり平和祈念資料館-開館とその後の歩み-」