僕がこの事務所で出演する最後のブライダルフェアの朝を迎えた。
打ち合わせ最終日に醜態を晒し、二宮さんと大野さんに介抱してもらってどうにか回復した僕は自宅まで送ってもらった後、二日ほど使い物にならなくてひたすら寝て過ごした。
食事もあまり摂れず思いのほか体重が落ちてしまったので、当日までに先日フィッティングした時の状態に戻さなければいけなかった。
帰宅した時にぐったりした僕を見た母さんにも心配をかけてしまったので、半ば無理矢理食事を摂ったのが功を奏してなんとか前日までに戻すことが出来た。
「じゃあ母さん行って来るね」
靴を履き、振り返って僕の後ろに立つ母さんへ声をかける。
三和土に立つ僕と、上がり框の上に立つ母さんとで目線が並ぶ。
「……」
母さんは何も言わず、僕の頬を持って自分の方へ引き寄せた。
「え、ちょ、な、なに?」
母さんは無言で僕の頬を下から持ち上げるように触り、そこから顔を右へ左へと振り、再び正面に戻すと今度は耳朶を揉むように触った。
何かを確認するような動作に訳も分からずされるがままの僕。
最後にもう一度頬を揉むように触ると、にっこり笑った。
「うん。今日の雅紀はばっちりイケメン。しっかりお客様の幸せのお手伝いしておいで」
「くふふ。分かった。いってきます」
「いってらっしゃい」
くるりとその場で180度回転させられてトンと背中を押されてその勢いに乗って家を出た。
運良く座れた電車の中で今日一日の流れを思い描き、指を折って一つひとつ確認する。
模擬挙式の時は…。模擬披露宴の時は…。
頭の中で行われた予行演習と、事前に打ち合せた際に渡された資料を照らし合わせる限り間違いはなかった。
大丈夫。漏れはない。
「…っしゃ」
ばっちり頭の中に入っているという自信からか、先日二宮さんたちと約束したベストを尽くすことにいつも以上に気合が入り思わず小さく声が出た。
…ただ、しょーちゃんと会った時どうなるか、それだけが少しだけ不安だった。
あれほどの拒絶反応を見せた自分の身体が、果たして今日は大丈夫なのか。
上手く気持ちが切り替えられるだろうか。
もし。
もしも、切り替えられなかったら…?
やっぱり駄目だったら?
みんなの前で、お客様の前で、あんな風になってしまったらどうしよう。
「………っ」
ヒュッと息を吸い込んだ後、一気に呼吸が出来なくなった。
一瞬で血の気の引いていく感覚がして慌てて手摺りを掴んだ。俯いても焦点が合わなくて、足元がグラグラ揺れているような気がした。目を瞑ってやり過ごそうと手摺りを掴む手に頭を預ける。
やたらとこめかみの辺りから変な音が聞こえる。
さっきまで聞こえていた車内のアナウンスとは違う音。
明らかに声とは異なる何らかの音がリズムを刻んでいる。この異質な音の正体は、僕の、心臓から発せられている。
密着した左胸と腕とこめかみが連動しているらしく、心臓の動きに合わせて頭の中がその音だけになり、自分自身が激しく揺れているような気がする。
ヤ、ヤバいかも…。
まだ本人に会ったわけでもないのに、想像しただけでこんな状態になってしまうなんて先が思いやられる。
どうにかしなきゃと思う反面、どうしていいか分からず途方に暮れる。
このままブラックアウトしてしまうのではないかと思った時、上着のポケットに入れていた携帯電話がブルブルと震えた。
同時に呼吸が再開され、新鮮な空気が体内に送り込まれたことでギリギリ回避された。
若干痺れの残る手で電話を見ると、メッセージが表示されていた。
『体調どう?相葉くんの本当の本気、見せてもらうからね』
どうして、この人は…。
普段滅多にやりとりなんてしない相手なのに、この人から連絡がくるタイミングに何度助けられたことか。
どこかに監視カメラがしかけられているとしか思えない絶妙さで送られてくる。
変化球の多い言葉の裏側にあるこの人の温かい優しさに、今だって泣きそうになる。
ふぅふぅ言いながらもなんとか現在移動中であることと、全力でやり切ることを手短に返信して再びポケットにしまう。
ゆっくりと目を閉じる。
さっきまでの息苦しさが嘘のように体が軽くなった。
そうだ。
僕の相手はしょーちゃんじゃない。
しょーちゃんのためだけに仕事をするんじゃない。
僕の仕事は新たな門出を最高の一日にしようとしている人たちのためのお手伝いなんだ。
危うく相手を間違えるところだった。
それに、僕は一人じゃない。
なにかあった時に縋る手があるというのはとても心強い。
大丈夫。
大丈夫。僕は大丈夫。僕は僕に出来る最大限のことをやるだけ。
社長の最後の仕事を、最高の仕事で締め括るんだ。
僕はやれる。僕ならやれる。
大丈夫。僕は大丈夫。
小さな声で何度も呟いて自己暗示をかけた。