コーヒーを飲んでいた智くんが徐に立ち上がり、俺はその場から動かずに視線だけで追った。

 

 

 

智くんは先ほどの絵の前で歩みを止めた。

 

 

 

 

絵を左手に取って胸の辺りでじっくり眺めている。

 

 

 

ゆらりと持ち上げられた右手がふわりと絵を撫でる。

 

 

慈しむように優しく触れる指はまるで舞うような雅さで、見る者の心を瞬時に奪う。

 

 

「仕事が忙しくなるとなんか作りたくなるんだ…。スケジュールがギュウギュウになると自分の中に色んなもんが溜まって行くのが分かって、それを吐き出すために一心不乱に描いたり作ったりして、体ん中リセットしてた」

 

 

一種の解毒のようなものだろうか。

 

 

仕事をすることによって生じるフラストレーションやストレスを、創作活動という智くんなりの方法で解消していた訳だ。

 

 

「デビューしてしばらくはそれで上手くいってたんだけど、松潤のドラマが当たって俺らの活動がそれまで以上に忙しくなって、いよいよ時間がとれなくなって…ちょうどその時、釣りに誘われて行ってみたら意外と面白くて…」

 

 

グループの転機と言える松本が主役を張った学園ドラマ以降、爆発的に仕事が増えて二日以上のまとまった休みが取れないのが常となるような生活に一変した。

 

 

肉体以上に精神が疲労するので、体感の狂いを好きな事をすることによって智くん的に精神の安定を図ろうとしていた。

 

 

それがこの頃は仕事が忙しすぎて、疲弊する一方で回復させることができなくなっていた。

 

 

「何かを作ってる時ってさ、唯一無になれるって言うか時間を忘れて没頭できるんだ。寝ることとか食うこととかしなくてもひたすらその世界に向かい合ってられるんだけど、そうするとマネージャーから注意されて、繰り返す内にどうしても次の仕事のこととか気にするようになって集中できなくなっちゃった」

 

 

時間の概念や、睡眠不足や食事を抜くことで肌荒れや体調不良、遅刻といった管理不足に繋がるとなれば、マネージャーとしては注意せざるを得ない。

 

 

結果それが智くんの体内リセットの妨げとなり、疲労が蓄積される悪循環を辿る。

 

 

そこで新たな解決策として見出されたのが釣りと言うことだろうか。

 

 

 

 

「釣りはあなたを仕事から忘れさせてくれた?

 

 

コーヒーを一口飲んで、カップをソーサーに戻す。

 

 

脚を組んで肘置きに肘を乗せ、軽く傾いだ顔を拳に乗せて軽い調子で尋ねると、智くんはそうだねと笑った。

 

 

「魚の前では俺はただの釣り人だからね。俺が何者かなんてアイツらには全然関係ないじゃん?

 

 

確かに。

 

 

竿の扱い方に上手い下手の問題はあるだろうけど、釣られる側からすれば釣り人の職業なんて全く関係ないな。

 

 

「それにさ、他の釣り人も俺が誰だろうと気にしない。日焼け止めを塗れとうるさく言うマネもいない。雑音もないし、余計なことは全部取っ払って、竿の動きだけに全集中力を注ぎこむ時間は俺にとってはこれ以上ない最高の環境なんだよね。

 

…あっ、そう言えばこの間船長がさ、」

 

 

手にしていた絵を元の場所に戻し、ソファに座り直して先日あった出来事を身振り手振りを交えて説明を始める。

 

 

 

普段は寡黙な智くんが、釣りのこととなると途端に多弁になる。

 

 

目を輝かせ、頬を紅潮させて興奮気味に語るその様子がいつぞやの創作活動中と同じで、本当に同じぐらい好きなんだと見ている側にも伝わってくる。

 

 

「そこまであなたを魅了させられるなんて、本気で嫉妬しちゃうな」

 

 

心底嬉しそうな智くんの笑顔を見られるのは喜ばしいことだけど、その役目が自分ではないことが少しばかり複雑な心境に、思わず本音が零れた。

 

 

「…翔くん?

 

 

そこで話が途切れ、一瞬きょとんとした表情で智くんがこちらを見た。

 

 

「あっ!ねえ智くん。やっぱりさ、少しだけでも飲まない?せっかくのお祝いなんだしっ」

 

「…うん。じゃあちょっとだけ」

 

 

誤魔化すように早口で捲し立てると、いつもの柔らかい笑顔を返してくれたことに内心ほっと胸をなで下ろした。

 

善は急げとすぐにキッチンに行って準備にとりかかる。

 

グラスを出して、氷と酒を用意して、乾き物を探してと、自分の家なのにあちこちの扉を開けては閉めてを繰り返しバタバタ忙しなく動く俺を肩越しに振り返って見ている智くんを視界の端に捉えながら動き続ける。

 

 

 

「んふふ。慌てなくていいぞ、翔くん。ゆっくりで大丈夫だから」

 

「う…うん」

 

 

ソファで完全にこちら側を向いて座り、背もたれのてっぺんに沿わせた腕に顎を乗せた智くんが笑う。

 

不思議とそう言われると途端に落ち着くことが出来て、一度は見たはずの戸棚の中から探しまくっていた物がアッサリ見つかった。

 

 

「おまたせっ」

 

「おー、豪華だね。ありがと」

 

 

テーブルの上に色々広げ、それから改めて二人の事務所に入ってからの年月に祝杯をあげた。