「本当になんもなくなっちゃったんだねー、翔くん家」
「うん。イチメン貸し出し中だから」
現在、うちのリビングの一部は某展示会場に俺の部屋として展示されている。
そのためある一画だけ、本当に抜け落ちたみたいにガランドウになって、初めの頃は帰宅する度に空き巣の仕業かと思ったぐらい。
この頃、やっとこの雰囲気に慣れてきた。
「あ…」
「…それ?ふふ、それだけはどうしても出せなかったの」
ほぼすっからかんのそこに、ひとつだけ残したのは一枚の絵。
俺の名前を冠した帽子を被っているゴリゴリの筋肉質な男性は、智くんがコンビニで偶然読んだ雑誌からインスピレーションを得たらしい。
なので、一応俺が作詞活動中に見てる世界を再現しているとお伝えしているんだけど、厳密には完全再現とは言えないのである。
唯一、これだけはどうしても差し出せませんでしたことをここにお詫びしておきたい。サーセン。
「はい。おまたせしました…っと」
ガチャガチャと雑な音を立てながらローテーブルに滅多に出番のないカップとソーサーを置くと、何もない壁の前に立っていた智くんが振り返った。
「ありがと」
「本当にコーヒーで良かったの?酒の方が良くない?」
結局、二軒目には行かず自宅へ招いた。
行き先を告げようとしたタイミングで智くんの方から、次の行き先に俺の家をリクエストされたから。
それも考えなかった訳ではない。実際、候補を幾つかに絞り込む際にも自宅は最終選考に残っていたぐらいだ。
「ううん。翔くんのコーヒー飲みたかったから」
「それは有難き幸せ。…お湯沸かすだけのインスタントですけどね。あ、熱いよ」
飲む寸前だったらしく、カップを傾けた状態で一瞬止まりセーフだった。
背中を丸めてフーフーと息を吹きかける姿が可愛らしいと思う。とても芸歴25年のベテランには見えないし、齢38にも見えない。
それから暫くは時折智くんがズッ、ズッ、とコーヒーを啜る音がするぐらいで、特に何かを話すわけでもなく、『ただコーヒーを飲む』という時間の使い方だった。
意外とね、こういう時間てないもんだななんて思った。
一人の時、コーヒーを飲む時は何かをしながら、それこそ書き物をしたり、資料を読んだり、調べ物をしたりってのが殆どで、何もせずにただコーヒーを飲むなんて時間の使い方はしたことがなかった。
実際やってみて思ったのは、割と悪くないと言うか、これならもう少し上質なコーヒーを愉しんでみたい。いつもはポットで湯を沸かしてインスタントコーヒーの粉を適当に入れて掻き混ぜて。ぐらいなもんだけど、たまには違うのを試してみるのも悪くないんじゃないかと思えた。
松本みたいに凝ったのは無理だけど、相葉くんなら手軽なものも知っていそうだから今度聞いてみようかな。
そう言えば…。
「智くん、あのさ…」
「うん?」
「なんで今日は2人でだったの?俺とコーヒー飲むのが目的じゃないでしょ?」
いくらなんでも理由がそれでは弱すぎる。それだったら食事の後にウチに寄ることだって出来たはず。
「…ああ。それは、…うん。翔くんと、話したいなと思って」
そして智くんはぽつりぽつりと、慎重に、時には言葉を探りながら、本来の目的を話し始めた。