鏡の無機質な感触に胸が軋む。
今、僕の手に触れているものが、硬くて冷たくて、しょーちゃんの熱い手じゃないんだな、あの手に僕は二度と触れることは出来ないんだと思うと、目頭が熱くなった。
瞬きをしたらひと滴がぽろんと鏡の上に落ちて揺れた。
「…………っ……」
下唇を食んでそれ以上涙が零れるのを我慢して、僕はもう一度仰向けに寝転んで顔を腕で覆った。
どうして。
どうして、平気だなんて思ったんだろう。
抱き合えなくたって、キスしなくたって、会えなくたって、声が聞けなくたって、メールがなくたって。
なんで仕方ないなんて思ったんだろう。
忙しいから。時間が不規則だから。疲れてるから。
負担にならないようにと思っていたつもりだったけど、そうじゃなかった?しょーちゃんには都合が良かった?
それとも、抱きたい時に抱けなくて、キスしたい時に出来なくて、会いたい時に会えなくて、声を聞きたい時に聞けなくて、話がしたい時に出来なくて。
したい時にしたい事が出来なくて、しょーちゃんにとっては都合が悪かった?
僕は、我慢せずに言うべきだったのかな。
だけど、しょーちゃんならこんな時どうするか、どう思うか。しょーちゃんと釣り合うためにはどうしなきゃいけないのか、どう思わなきゃいけないのか。
いつの間にかそんな風に考えるようになってた。
しょーちゃんに好かれたいと言うより、困らせたくない。面倒な奴だと思われたくない。何よりしょーちゃんに嫌われたくないって想いの方が強かった。
こんな風に考える自分が女々しいって自覚は十分ある。
僕はどれだけ頑張っても逆立ちしたって女にはなれないし、ましてやしょーちゃんの子供を産むなんて世界がひっくり返ったって不可能なんだから、これが正しい道なんだ。
片桐社長に言われなくても、きっといつかはこうなっていたんだ。
今がなるべくしてなったタイミングだっただけ。
そう思いながらゆっくりと息を吐いた。
「あのさぁ、今日はどっちに帰んの?」
不意に頭上から声を掛けられてビクッと体が震えた。
目を擦って腕をどけると二宮さんが覗き込んでいた。
ああ、そうか。そう言えば撮影中だったっけ。
いつの間にかシャッターを切る音もしなくなったし、全然指示が飛んでこないからすっかり忘れてた。
「どっち…って?」
ぼんやりした頭で答えた。
「千葉の自宅?それともあっち?」
そう言って二宮さんが親指でどこかを指していた。
あっちってたぶんしょーちゃんの家のことだろうな。
「自分の家に帰りますよ…」
鉛のように重い体をゆっくりと起こしながら答える。
二宮さんは知らない。
僕としょーちゃんが別れたこと。
「ふーん…」
それだけ言うと、ぼーっとしたまま座っている僕に柔らかいブランケットみたいなのをかけてくれて、周りに散らばった花びらを拾い集める。
集めたものを片付けてどこかに行って、暫くしたらペットボトル片手に戻って来た。
「スポーツドリンクだけど無いよりたぶんマシだから」
そう言って手渡されたのは常温のスポーツドリンクで、吐いた後の水分補給をしていなかったことを思い出した。
「…ありがとうございます」
既に蓋は緩められていて、すぐに外せた。
生温い液体がゆっくりと喉を通り過ぎていくのを体で感じながら少しずつ口に含んだ。