「…ハァッ、…ハァッ、…ハァ。……ペッ!

 

 

一通り吐いて、口の中が気持ち悪くて唾を吐き捨てた。

 

 

頭ん中が真っ白になって、吐くだけ吐いたらちょっとだけマシになった。

 

 

でもまだ頭は上げらんなくて、下げたまま便座に手をついて一旦水洗レバーを掴んで吐いたモノを流した。

 

 

ザーッと言う音とともに吐瀉物が渦を巻いて吸い込まれていった。

 

 

これであの独特の臭いも少しだけマシになるだろう。

 

 

「はーっ。はーっ。はあぁぁー…」

 

 

額から無数の汗が滴ってくる。

 

 

深呼吸を繰り返すうちに落ち着いたからか、つい余計な事を考えてしまった。

 

 

 

 

 

…悪阻って、こんな感じなのかな。

 

 

 

テレビで見る悪阻のシーンは、『うっ』と言って口許を押さえて洗面所へ駆け出していく女性の姿があって、次の瞬間は吐いたものを洗い流す様子が殆どだった。

 

 

それはマリエさんにも通ずるものがあり、今の自分みたいにトイレに這いつくばって汚らしく吐く姿とは程遠かった。

 

 

 

 

同じ行為でも愛する人の子を宿した女性が吐く姿は美しいのに、自分のなんとみすぼらしいことかと比較することさえおこがましい気がした。

 

 

 

そうこうしてる内に第三波が来た。

 

 

「う」

 

 

おえぇぇーっとえづいている所に、再び足音が聞こえて来たけど、やっぱり振り向く余裕はなくて、無視していた。

 

 

そしたらやっぱり背中を摩られたんだけど、さっきと手の感触が違う。

 

 

「櫻井じゃないから、安心して全部出しな」

 

 

しょーちゃんとは違う肉厚の手の持ち主は二宮さんだった。

 

 

「にの…?う、」

「ほら、いいから。出せって」

 

 

 

どうして二宮さんが?とか、どうしてここが?とか思う事は色々あったけど、摩ってくれる手は優しくて、安心して僕は吐き出すことが出来た。

 

 

 

僕は、ただしょーちゃんが好きだっただけなのに。

 

 

 

なんでこんな風になっちゃったのかな。

 

 

 

どうしてこんな苦しい思いをしなきゃいけないんだろうな。

 

 

 

零れ落ちる涙は、しょーちゃんを想っての涙なのか、吐くことに対する苦しさだったのか分からないけど、僕はポロポロと涙を流した。

 

 

 

二宮さんは何も言わず、ずっと背中を摩ってくれていた。

 

 

 

 

 

いよいよ吐くモノもなくなって、胃液だけになった頃やっと吐き気も治まってきた。

 

 

そしたら、後ろからスッとキャップが外されたペットボトルが差し出され、視線を上げた。

 

 

「…これで口ゆすいでいいから」

 

 

手を伸ばしペットボトルを受け取ると、中の水がちゃぷちゃぷと小刻みに波打ち、自分の指が震えていることに気がついた。

 

 

水を零さないように両手でしっかり持って口許まで運び、ゆっくり水を含んだ。

 

 

そして口内で水を転がし吐き出すのを何度か繰り返して、やっと口の中の酸味を感じなくなった。

 

 

水を口にしなくなったのを確認した二宮さんが手を差し出すのでペットボトルを返し、ゆっくり立ち上がって水洗レバーに手を掛けた。

 

 

レバーを捻り、またさっきと同じように渦を巻いて吸い込まれていった。

 

 

 

ずっとしゃがんでいたせいか脚がすごく痺れていて、歩くことさえままならない。

 

二宮さんに掴まりながら洗面ボウルのある場所まで歩いて、水を出して顔を洗った。

 

 

今日の僕は何回トイレの洗面で顔を洗うんだろう。

 

 

水を止めてハンカチで顔を拭いて面を上げると、鏡越しに二宮さんと目が合った。

 

 

「すごい顔色だね。幽霊も真っ青だよ」

「すいません。ご迷惑おかけしました」

 

 

二ッと笑う二宮さんに目を伏せてお礼を言った。

 

 

「お疲れのところ悪いんだけど、ちょっとつきあってよ」

「え…」

 

 

さすがにこの状態で今すぐと言うのは酷な話だ。

 

 

日を改めてではいけないのか訊こうとした。

 

 

「貸し一個」

 

 

僕に視線を合わせずそれだけ呟いた。

 

 

「…分かりました」

 

 

仕方なく、承諾して、長い息を吐いて覚悟を決めた。