「…ふ、っ」

 

 

嗚咽が洩れそうになって慌てて手の甲を使って押し殺す。

 

 

震える足でゆっくり下がると、鍵のかかった出入り口のドアに背中が当たり足が止まる。

 

 

 

 

 

嫌だ。

 

 

嫌だな、僕。

 

 

こんなしょーちゃんは嫌だ。

 

 

 

ふるふると何度も頭を振った。

 

 

「…………」

 

 

しょーちゃんはその場から動かずじっと僕を見てる。

 

 

冷たい、目で。

 

 

いつも僕を見る目には熱を孕んでいたのに…。

 

 

 

 

しょーちゃんが僕のしょーちゃんじゃなくなっちゃった。

 

 

 

ねえ、しょーちゃん。

 

 

 

しょーちゃんの目に、ちゃんと僕は映ってる?

 

 

 

怖くて動けない僕と、微動だにしないしょーちゃんの間で時が止まってるみたいだった。

 

 

お互い、瞬き一つしないで、相手を見ているだけ。

 

 

ただ見られてるだけなのに怖くて仕方ない。

 

 

逃げ出したい。今すぐ。

 

 

 

 

「………うぅっ」

 

 

ボロボロと涙が零れ落ちるのを止めることが出来なくて、その顔を見られたくなくて下を向いて隠そうとしたら、背中のドアがガタガタと揺れた。

 

 

「すみません!どなたかいらっしゃいますか!?

!!?

 

 

外から女性の声がして振り返ると、ノックの後、ガチャガチャと鍵のかかったドアノブが何度も回る。

 

 

こんな時でさえ焦った僕が縋るのはしょーちゃんで。

 

 

「…交渉決裂だな。残念だよ、雅紀」

「しょ…?

 

 

顔をあげてしょーちゃんを見たら、冷静な顔で僕の方へ歩いて来た。

 

 

何をされるのか分からなくて、それも怖くて、分かりやすいぐらいに身を竦ませた。

 

 

「そんな嫌がんないでよ。何もしないから」

 

 

それを見たしょーちゃんは、眉を下げて苦笑した。

 

 

その顔はいつものしょーちゃんなのに。

 

 

それでも僕は力を抜くことが出来ず怯えていると、目の前で突然着ていたジャケットを脱ぎだした。

 

 

そして脱いだそれを二つ折りにすると、僕の腕を取ろうとした。

 

 

咄嗟に身構えた僕を見て、鼻を鳴らしクッと片方の唇の端をあげて笑った。

 

 

「ああ、おまえに嘘ついちゃ駄目なんだっけ」

 

 

そう言うと、折ったジャケットを持っててと言ってから僕に直接触れないように預け、着ていたシャツの袖のボタンを外し腕まくりをして、ネクタイを肩にかけた。

 

 

「…ああ、そうだ。お互いいい大人なんだから、仕事は今まで通りでね」

 

 

そう言って、ポンと軽く肩を叩くと激しく回るドアノブの施錠を解いてドアを開けた。

 

 

「すいません」

「あ…っ。櫻井さん!?相葉さんも?!あの、鍵がかかってたみたいですが何かありましたか?

 

 

外にいたのは従業員の女性で、急に内から開いたことにびっくりしていた。

 

 

「ここのトイレで不具合があったみたいで、相葉くんがわざわざ教えてくれたんですよ」

 

 

にこやかに答えるしょーちゃんは、すっかりここのホテルの従業員の顔に戻っていた。

 

 

「そうだったんですね。業者へ修理依頼は必要そうですか?

「いや、もう直ったからしばらく様子を見てからでもいけると思いますよ」

「分かりました」

 

 

女性従業員の肩越しに向かいの女子トイレのドアが開いて、マリエさんが出て来るのが見えた。

 

 

まだ少し顔色が蒼ざめているのを目敏く見つけたしょーちゃんが、するりと女性従業員の横を抜けていく。

 

 

「大丈夫ですか?

「あ、櫻井さん…。すいません、ご迷惑をおかけして…」

 

 

声をかけたのがしょーちゃんだと分かるとあからさまにホッとした顔を見せる。

 

 

「まだ顔色が良くないですね。無理せず、迎えに来てもらいましょう」

「はい…」

 

 

マリエさんの肩を抱き顔を覗き込んで言えば、マリエさんの頬に赤みがさし、あっさりとそれに従う。

 

 

 

正に従順。

 

 

 

既に夫唱婦随の夫婦関係みたいなのが出来てるんだね…。

 

 

何も知らない人が見れば、キラキラと眩い光を放つ幸せそうな2人の姿に見えるだろう

 

 

 

これが片桐社長の言う、『日のあたる道』。僕としょーちゃんとでは歩くことを許されなかった場所。

 

 

そこを2人が並んで歩く後姿を見るだけで、胸が痛む。

 

 

「じゃあ『相葉くん』、ありがとうね。この後、最終打ち合わせだよね。『またね』」

 

 

華奢な肩から滑らせた大きな手を小さな背に添え、振り返って屈託なく笑うしょーちゃんは、僕の知ってるしょーちゃんだった。

 

 

 

 

 

 

『相葉くん』と呼んだしょーちゃんの『またね』は、『雅紀』に対する『さよなら』に聞こえた。

 

 

 

 

 

いつの間にか女性従業員は、元の自分の業務に戻るために場を去っていた。

 

 

僕はもう一度男性用トイレに戻り、覚束ない足どりで個室に入って鍵をかけた。

 

 

蓋をした便器に座り、預かったままだったしょーちゃんの上着に顔を埋め、咽び泣いた。

 

 

 

鼻腔一杯に広がるしょーちゃんの香り。

 

 

 

僕が大好きな匂い。

 

 

 

 

 

「しょーちゃん」

 

 

 

 

 

瞼の裏に焼き付く2人の後ろ姿。

 

 

 

肩を抱き背に添えた鍛えられた太い腕。大きな掌。

 

 

 

あの手が体の上を滑ればどれだけ気持ちいいか、その感触を今も憶えてる。

 

 

 

 

 

「しょおちゃん」

 

 

 

 

 

『マリエさん』と慈しむように呼ぶ声。

 

 

 

2人でいる時に呼ばれる掠れ気味な『雅紀』って艶を孕む声に何度、腰砕けになったことか。

 

 

 

 

 

全部。僕のものだったのに。僕だけのしょーちゃんだったのに。

 

 

 

僕にするみたいにマリエさんにもしたの?

 

 

 

 

 

「やだよぉ…しょーちゃん」

 

 

 

 

 

いつだって僕の行く先を照らしてくれたのはしょーちゃんだったのに。

 

 

 

 

 

 

 

『交渉決裂だな。残念だよ、雅紀』

 

 

 

 

失くしちゃった。

 

 

 

 

全部。僕が手を離したら。しょーちゃんは別の人の手を取ってしまった。

 

 

 

 

僕じゃない誰かの行く先を照らす光になってしまった。

 

 

 

 

 

 

この日、僕は僕の光を失った。自らの手で放してしまった…。