しょーちゃんに香りを残した人の存在が気にならないわけじゃない。

 

 

けど、しょーちゃんが僕が考えてるようなことはないって言ってくれたから、ずっと前に僕には嘘つかないって約束してくれたから。

 

 

だから僕はそれを信じればいいんだ。

 

 

僕が信じるのはしょーちゃんでいい。

 

 

 

 

最後のブライダルフェアの最終打ち合わせをする為にホテルまでの通い慣れた道を歩き、何度も顔を合わせたドアマンとも笑顔で挨拶を交わし回転ドアをくぐり抜ける。

 

相変わらず一歩中に入るだけで時の流れが緩やかに変わるロビーは、静かな佇まいで落ち着いている。

 

予定時間より早めに着いた僕はラウンジでコーヒーを頼んで時間まで過ごすことにした。

 

 

ウェイターが綺麗な所作で僕の前にコーヒーを運び、スッと離れていく。

 

 

カップを手にすると、独特の芳しい香りが鼻腔をくすぐる。

 

 

やっぱりここのホテルのコーヒーは美味しくて、僕好みの味はずっと変わらない。

 

 

 

 

ゆっくり味わいながら打ち合わせ用の資料に目を通していると、背中越しの席に人の気配を感じた。

 

ここはラウンジの中でも奥まっていて、窓際でもあんまり人が来ないので僕は好んで座っているけど、僕以外でもわざわざこっちの方を選ぶ人がいるんだな、なんて思っていた。

 

 

今までの経験上、あまり人に聞かれたくない話をする人たちがこちら側へ来ることが多く、もしくはこのホテルの従業員がなんらかの打ち合わせに使うかのどちらかだった。

 

 

ラウンジのテーブルは殆どが空いているから、わざわざここに来たと言うことは従業員かな。

 

 

「……は、いかがですか?

「ええ、おかげさまでおじいさまも私たちのことをようやく認めてくださって、今日もここまでおじいさまが送ってくださったんです」

「会長がご自身で運転なさったんですか?それはすごい変化ですね」

「櫻井さんが根気強くお話ししてくださったおかげです」

 

 

後ろに座り仲良さそうに話をする一組の男女らしい声に思わず伏せていた顔を上げた。

 

 

「いやいや。マリエさんの諦めない強い想いが会長に伝わったからですよ。マリエさん自身の体調はいかがですか」

「はい。だいぶ落ち着いて来ました。まだ匂いの強いものは苦手ですが…」

「そうですか。それは良かった。でもまだこの時期に油断は禁物ですからね。あまり無理はなさらない方が宜しいかと。男は、と言いますか僕は特にそういった事に疎いので何かあればすぐに仰ってくださいね」

「ありがとうございます。私も先日のエコーでやっと実感が湧いてきたばかりなんですよ」

 

 

 

 

…この、声。

 

 

 

背凭れのてっぺんを持って慌てて振り返ると、こちらに背を向けて座っていた男性の肩に肘が当たり、同じように僕の方を振り向くと驚いたように目を見開いた。

 

 

「……雅、」

「しょーちゃん」

 

 

時間が止まったみたいに2人とも振り返ったままの状態から動けなかった。

 

 

「なんで…」

「しょーちゃんこそ、なに、今の」

 

 

偶然聞こえてきた会話だけど、明らかに聞き捨てならない内容だったよね。

 

 

そしてお互いラウンジにいることが信じられない思いもあって呆然としていた。

 

 

僕が今日ブライダルフェアの打ち合わせでホテルに来ることはしょーちゃんは分かっているはずで、しょーちゃんはこのホテルの従業員だからいても全然おかしくはないんだけど、それにしたってこのタイミングでこの場所で会うとは僕は思っていなかったし、しょーちゃんも同じだろう。

 

 

「あの…櫻井さん?

 

 

マリエさんと呼ばれていた女性の声で我に返る。

 

 

しょーちゃん越しに見えた小柄な彼女が心配そうにしょーちゃんを呼んで立ち上がったかと思えば、急に手にしていたタオルを口に宛がった。

 

 

「マリエさん!?

 

 

しょーちゃんが慌てて彼女のもとへ駆け寄り肩を抱いて俯いている顔を下から覗き込んだ。

 

 

「少しだけ我慢できますか?移動しましょう」

 

 

前屈みになった彼女を庇いながら少しだけ足早にしょーちゃんが向かって行った方向にはお手洗いがあった。

 

 

僕も少し遅れて2人の後を追って、廊下で待つしょーちゃんを見つけた。

 

 

「ちょっと来て」

 

 

しょーちゃんの腕を掴んで、有無を言わせずそのまま男性用トイレに連れ込んだ。

 

先にしょーちゃんを押し込んで、後から入った僕が後ろ手に鍵をかけた。