光のない真っ暗闇の中、遠くで誰かのすすり泣く声が聞こえる。
喩えるなら鬱蒼とした深夜の森の中。星の光も月明かりさえも届かない場所。
誰の声…?
目を閉じて耳を澄ます。
…嘘だよ。
嘘?なにが嘘?
瞼越しの前の方にぼんやりと光を感じて目を開ける。
…行かないで。
誰かに呼び掛けているみたい。
すすり泣く声はまだ聞こえている。
遥か遠くに微かな光。
それは今にも消えてしまいそうなほど儚く淡い。
…戻って来て。
声から伝わる心の底からの悲痛な願い。
胸が締め付けられるように切なくて、苦しい。
「…しょーちゃん」
バンッ!!と突然なにかが破裂したような大きな音に弾かれるように顔を上げた。
続いてどこかで虫の羽音のようなものも聞こえた。
目は見開かれ、心臓は壊れたかのようにドッドッドッドッとものすごい速さで脈を打つ。
「…ハッ。…ハァッ。…ハァッ」
辺りは真っ暗でここが夢か現か意識が彷徨う。
膝を抱えたまま頭だけを左右に動かすと少しずつ慣れた視界にシューズボックスが映りこみ、ここが現実だと教えてくれた。
「あ…。夢…?」
正面にリビングに続く廊下が見えてその先ではリビングに煌々と明かりがついていた。
「…そっか。僕、しょーちゃんを追い出してそのまま…」
出かける途中だったらしいしょーちゃんに一方的に腹を立て、怒りに任せて勢いであんなことを口走ってしまった。
「もー、僕、やだなぁ…」
一度は上げた顔をもう一度抱えた膝に伏せる。
この頃、しょーちゃんの事となると感情のコントロールが出来ない。一瞬で感情が爆発してしまうことが増えた気がする。
こんなことじゃその内愛想をつかされてしまうんじゃないかと不安に思う。
いや、むしろもうつかされてしまったのかもしれない。
顔をうつ伏せから横向きにして膝の上に頬を乗せる。
「だから、少し距離を置こう、だったのかな…」
僕が冷静な判断が出来るようになる為に冷却期間が必要に見えたのだろうか。
自分の身の回りで起こる事が良くないからと言って、厄介な案件が自分だなんて卑屈になって。
「そりゃちょっとは落ち着けって言いたくもなるよね…」
立ち上がろうとしてシューズボックスに手を掛けた時に置いてあったトレイをひっくり返した。
「ありゃりゃ。…え、鍵?!」
思わず後ろの玄関を確認してしまう。
しっかりかかった玄関ドアの鍵。足元に落ちてきた見慣れたキーケース。
「しょーちゃん、家に入れないんじゃ…」
車の鍵もついているし、ここの家の鍵もついている。
鍵と僕が室内にいて、鍵を持たないしょーちゃんが外にいる。
つまりしょーちゃんは今、自分の車で移動も出来なければ、自宅にも帰れないと言うことになる。
「やっば…」
帰って来た時に連絡をいれてもらうしかないと携帯を取り出してメッセージを送るとリビングの方から音がした。
「まさか…」
キーケースを拾ってトレイに戻し、リビングに見に行くと、ローテーブルの足元に投げ出されたしょーちゃんの携帯が時々光を放っていた。
「マジか…」
片手で顔を覆うようにして天を仰いだ。
さっきの破裂音と虫の羽音の正体は多分これだろう。
誰かからの電話かメールの着信時に振動でローテーブルから落ちた携帯が床の上でそのまま震え続けていたんだと思う。
これで帰宅前の連絡を入れてもらえる可能性も限りなくゼロに近くなった。
少なからず僕はしょーちゃんが帰って来るまでは眠ることも出来ない。
…帰って、来るよね?
リビングの大きな窓からベランダ越しに月が見える。
しょーちゃん、ごめんね。
ちゃんと謝るから、帰って来てね。
待ってるから。
しょーちゃんの話ちゃんと聞くから。
だから帰って来て。ここに。
ローテーブルの横に腰を下ろして、月を見上げた。