「あの…雅紀?」
遠慮がちに掛けられた声でハッと我に返り、玄関先だったことを思い出す。
「ごっ…ごめん」
「大丈夫」
くっついていた胸の間に腕を入れられて慌てて体を離す。
開きっぱなしのドアを支えに地べたについた足をあげて汚れを払い、そのままケンケンをして家に戻るしょーちゃんの後に続く。
先を行くしょーちゃんが途中で脱げた片方のサンダルを拾い、玄関の三和土に揃えて並べる。
「今日は来るって言ってなかったよな?鍵は?」
廊下に上がる前にもう一度靴下の汚れを叩き落としたしょーちゃんが肩越しに振り返る。
「あ…、今日、バッグの中移し替える時に入れ忘れちゃって…」
「ふーん…」
その返事が素っ気ない気がして、違和感を覚えた。
まっすぐリビングに行くのかと思っていたらしょーちゃんは洗面の方へ向かい歯を磨き始めた。
この時間から歯磨き…?
夜勤ならとうに家を出ている時間だし、日勤を終えて帰宅したのならこの時間に歯磨きはおかしい。
「…しょーちゃん?どっか行くの?」
背を丸め口をゆすぐしょーちゃんの背中に問い掛ける。
「うん。ちょっと…」
鏡越しでも視線を合わせることなく、タオルで口を拭ったしょーちゃんは僕の横をすり抜けていく。
慌てて肘を掴もうとして手を伸ばしたけど、寸でのところで躱された。
ううん。躱したっていうか、今のは避けられた。だって軽く肘には触れたのに。
しょーちゃんの黒い背中が僕を拒絶している。触れられるのを嫌がってる。
「…しょーちゃん?」
「ん?」
寝室のクローゼットの前で袖のボタンを留めてネクタイを結んでいるであろう後ろ姿。
こんな時間からドレスコードでもあるような場所に出かけていくの?
嫌な予感しかしない。変な焦燥感に駆られる。心臓がバクバク言ってる。
「しょーちゃ」
「雅紀」
ジャケットを羽織り身だしなみを整えリビングに戻って来たしょーちゃんに声を遮られる。
その声はいつもの優しくて柔らかいものとは違い、少し鋭くて尖っている。
「…」
「…はい」
じっと僕を見て返事を待っているから、仕方なく質問をやめる。
「今日は面接だったの?」
「ううん…」
僕がスーツを着ているからそう思われたのかもしれない。今日のことはしょーちゃんには話していなかったから。
会ったら話そうと思ってた。…でも。
黙る僕を見てしょーちゃんは長いため息を吐いた。
「…うちの仕事が最後って言ってなかったっけ?フェアまでもうすぐだけど、この先どうすんの?」
呆れたような、怒りの混じったような、そんな複雑な、声。投げかけられるキツい視線。
「………」
未だに次の所属先が決まらない僕の身を案じてくれているのは分かる。だけど今はその心配はされたくなかった。
どうするもこうするも、僕だって何もしてない訳じゃない。しょーちゃんに心配かけたくてかけてる訳じゃない。
しょーちゃんの心配は一体なんの心配なの?その心配は誰のためのものなの?
以前のように純粋に僕の心配をしてくれてるとは思えないのは誰のせい?
「…僕のことはいいよ」
自分の中でだんだん怒りに変わっていく気持ちを抑えてそれだけ返すのが精一杯だった。