無意識の内にできない理由を考える自分を疑うこと。
すごく大事。
なぜなら、何か新たなことをする際、多くの人は無意識の内にできない理由を考え、やらないことを正当化してしまうから。
初めは、やろうと思っていても、いざ、やるとなると、強烈なブレーキがかかってしまう。
その原因は、大雑把に言うと不安や怖れ。
何に対しての不安や怖れかと言うと、傷つくことに対して。
新たなことをするとなると、知らないことばかりで、やったことないことばかりで傷つく可能性を秘めている。
傷つきたくない一心で、新たなことをすること自体を拒もうとする。
だって、極論ではあるが、新たなことさえしなければ、傷つくことなんて滅多にないから。
今まで通り過ごしていると、自分の心が傷つくことはほとんどないから。
極端な選択ではあるが、傷つかないことだけを考えると効果的。
ゆえに、人は、傷つかないためにも、新たなことをすることを選択肢から排除しがち。
無意識の内にできない理由を考え、やらないことを正当化しがち。
多くの人が陥っていること。
たくさんの人が、傷つきたくない、という思考に支配されてしまっているんよね。
育つ過程で、こうした思考癖を身につけてしまうんよね。
おそらく、教育が、大きな要因となっているのだろう。
じゃなきゃ、たくさんの人が、傷つきたくない、という思考に支配されるものではない。
残念ながら、日本の教育は、足並みを揃えるような教育。
頭が一つも二つも抜き出る人を抑え込むような教育。
全体を平均に均すような教育。
個性を伸ばそうとしたら「そんなことしても意味がないだろ」と周りから足を引っ張られる。
なんたって、偏差値至上主義だから。
自然と、勉強することを薦められ、勉強の力を伸ばすことを求められる。
勉強に重きが置かれているんよね。
まぁ、こうなるのも仕組み上ある程度は仕方がないんよね。
ただ、この仕組みには、様々な弊害がある。
なんせ、自分に勉強が合わないと感じた人は、勉強をしない道を選ぶ。
その時は、これで良いんだ、と思ったとしても、その後、勉強しておけばよかった、と思うことは多い。
しかも、こう思ったら、勉強することを自分の子供に求めちゃう。
自分が後悔したからこそ、子供にはそんな目に遭わせたくない、という想いが働き、子供に勉強することを求めちゃう。
これって、劣等感から生じる想いなんよね。
そして、自分にできなかったことを、子供に引き継がせているんよね。
また、受験のレールに乗り、進んでいく人もいざ受験申込みの時期が来ると、行きたい大学よりも、今の偏差値で行ける大学を選ぼうとする。
お金もかかることだから、ある意味仕方がない選択。
だが、浪人したくない、受験に失敗して傷つきたくない、といった今の自分の心を保つために、志望校のランクを簡単に下げる人は多い。
仮に、それで合格したとしても、手が届くかどうか分からないものに対して、挑戦する前から諦めた、できないものとして決めつけて逃げた、という記憶は残る。
手が届くものを確実につかむことは大事。
でも、手が届きそうにないものに挑戦する、ということも大事。
こういうチャレンジ精神を、受験システムは、奪う性質も備えている。
保身を考えて、ランクを下げる、というのは、長い人生を考えると大きなマイナスにもなりかねない。
もちろん、ランクを下げて合格したとしても、それはそれで素晴らしい。
けど、その合格と引き換えに、チャレンジ精神を失っていることもある。
ランクを下げて合格するよりも、一年じっくりと時間をかけて志望校に合格した方が、長い人生を考えるとプラスと言える。
傷つきたくない、という想いが、楽な選択肢を選ばせる。
ただ、一時の楽を選ぶと、人生を通してみると、苦につながっていることも多い。
知らず知らず、受験システムのひずみにハマっている人は山ほどいる。
しかし、そのことに当の本人は気づいていない。
だって、どうして、無意識の内にできない理由を考え、やらないことを正当化しているのかに疑問を持つ人なんて稀有な存在だから。
多くの人は、そんなことに意識を当てることもない。
当然、受験には、素晴らしい面もたくさんある。
だが、陰の部分もあることを頭に入れておきなよ。
人を選ぶ際、テストをするのは、理に適っている。
競争社会であれば、致し方ない面ではあるだろう。
でも、競争社会だからといって、自分と他者を比較する世界にドップリと浸る必要はない。
何をしようと、他者は他者で自分は自分。
他者に勝とうとしたところで、それにはあまり意味がない。
競う相手は他者ではなく、自分自身。
いつだってそう。
他者を超えようとするのではなく、自分自身がベストを尽くす。
それが、常に大事。
相手に合わせるのではなく、自分を持って自分を貫く。
こういう意識と姿勢を持って生きなよ。
なぜなら、自分の心が傷つくことって、大概、他者との比較によって生じるものなんやから。
自分一人で、何かに失敗したとしても、それだけでは、自分の心って、意外と大丈夫なもの。
傷つきはしないもの。
他者がいる中で、失敗するからこそ、自分の心って深く傷つくんよね。
なんせ、他者がいる中で失敗すると、失敗したことで自分の立場を相対的に下げたように感じるから。
他者が自分をどう見るのか、どう思っているのか、すごく気にする。
良く見られたい、という想いを強く持っているからそれに反した時、深く傷つく。
これは、比較の世界にどっぷりとハマり、自分の立場を優位に保ちたい、という想いを無意識の内に抱いているから。
ゆえに、できない理由を無意識の内に考えるのって、比較の世界にドップリとハマっていることが大きな要因なんよね。
比較の世界に留まることを正しいこととして、絶対的なものとしてとらえているからなんよね。
そのことに気づき、比較する世界から抜け出しなよ。
そして、自分を持ち自分を貫きなよ。
なんたって、自分が競う相手は、常に自分自身なんやから。
案外、そんなものなんやで。
サコヤンの独り言
「無意識の内にできない理由を考えるのは、比較する世界にドップリとハマり、そこに留まることを正当化しているから」