世間には、世間の当たり前、というものがいくつも存在する。


暗黙の了解として設定されている。


例えば、ある年齢に達するまでには初体験を済ましておくもの。


学生が終わると就職するもの。


結婚適齢期には結婚しておくもの。


もちろん、他にも当たり前のようになっているものはたくさんある。


一つ一つ挙げていけばキリがない。


おそらく、人としての力がある人は、こうした当たり前とされているものを難なくこなしていくだろう。


だが、世間の当たり前をこなすことができない人がいるのも事実。


その人独自の事情を抱え、世間の当たり前をこなせない人がいる。


けど、周囲は、事情のことまで配慮することなく、こなせているかこなせていないかで判断する。


そして、こなせている人は、こなせていな人を恥ずかしい人として、蔑んだ目で見たりもする。


だから、事情があってこなせていない人は、その事情をちゃんと話せない人は多い。


中には、嘘をついてまで、世間の当たり前をこなしているかのように振る舞う人もいる。


世間の当たり前をこなすことができていない自分を認めることができなくて…


正直に話して、変な目で見られることを怖れて…


こなせていないことで、仲間の中で浮いた存在になるのを怖れて…


ただ、こなせているかのように振る舞うことは、自分に嘘をつくことであり、自分をごまかすことであり、自分を偽ることである。


こんなことを続けていると、本来の自分を見失う。


偽った自分のまま生き続けることになる。


いつまでも、周囲の目を気にして生きることになる。


自分にとって、プラスになることではない。


むしろ、マイナスになることが多い。


日本では、平均的であることが求められている傾向が強い。


僕は、これを平均点至上主義と呼んでいるが、多くの人は平均より下にいくことを怖れている。


何か一つでも、平均よりも下回ると、それだけで駄目なんだ、と思い込む人は意外と多い。


自分を低く見る人は、思っている以上に多い。


そうして、自信を失っていく人は、山ほどいる。


平均よりも上であることが、絶対的である、という考え方は根強く残っている。


こういう考え方があるから、平均よりも下回る人が、もがき苦しむことになる。


とはいえ、日本の教育自体が、平均的な人を創るようなシステムになっている以上、この考え方がなくなることはないだろう。


だったら、これがなくならないことを前提にして対処する必要がある。


平均よりも上回っている人は、無意識の内に、平均よりも下回っている人を否定する。


軽い気持ちで、否定する。


残念ながら、そういう人の方が多いだろう。


だって、やはり、優越感に浸りたい人は結構多いものだから。


では、平均よりも下回っている人は、いつも、平均よりも上回っている人に対してビクビクしなければならないのか。


いや、決して、そんなことはない。


なんせ、平均よりも下回っている人は、下回っていることをきちんと認め受け入れたら良い。


下回っている事実は、事実なんやから。


その事実を認めずに、背伸びするから自分が苦しくなる。


自分をごまかすから、自分がもがき苦しむことになる。


なぜなら、事実をごまかすためには、嘘をつく必要がある。


しかも、一度嘘をつけば、その嘘に具体性を持たせるために、更なる嘘をつく必要性が出てくる。


嘘で嘘を固め、ドンドン、生きずらくなる。


自分で自分の心を傷つけ、自分で自分の考えや行動の範囲を制限する。


そんなことが至る所で起きている。


世の中には、色々な人がいて、世間の当たり前をこなせている人もいれば、何かの点で世間の当たり前をこなせていない人もいる。


世間の当たり前をこなせているのも個性だし、何かの点で世間の当たり前をこなせていないのもその人の個性。


こなせていないからといって、それが悪いわけではない。


こなせていない自分を認めようとしないことがアカンことなんよね。


こなせていな自分も、自分の一部分。


自分の一部分を自分で否定していれば、次第に、自分全体を否定するようになる。


そして、自信を失うことにつながっていく。


確かに、世間の当たり前をこなしていないことは、知られたくないことかもしれない。


恥ずかしいことかもしれない。


隠し続けたいことかもしれない。


だが、そうやってとらえていると、自分自身を無意識の内に否定したまま生き続けることになる。


それはそれで、自分のためにならない。


だからこそ、世間の当たり前をこなしていないのであれば、それを認め、受け入れる必要がある。


誰かに、変に言われたのであれば、蔑んで見られたのであれば、「偏見な目で見る人を引き寄せていたことに気づかせてくれてありがとう」とお礼を言って離れたら良い。


ただ、大事なのは、お礼を言った後、自分が偏見な目で見ていなかったかを振り返ってみること。


一つの出来事を、一つの成長の機会ととらえ、成長していけば良い。


気づきを得た後は、無理してそういう人と、付き合う必要はなく、離れたら良い。


もし、縁でつながっているのであれば、またどこかで出会い、つながるようになるから。


人は、自分のレベルに応じて出会う人が変わってくる。


関わる人が変わってくる。


自分自身が成長していけば、より素晴らしい人と出会えるようになる。


自分の力を必要としてくれる人に出会えるようになる。


しかも、素晴らしい関係を築けるようになる。


当然のように、世間には、世間の当たり前が存在する。


とはいえ、世間の当たり前と自分自身を比較する必要はない。


一般論が絶対的なものではないし、それに合わせなければならないものでもない。


たとえ、劣っていたとしても、それはそれで、自分の一つの個性。


そんな自分も認め受け入れる。


こういう意識、姿勢がすごく大事。


案外、そんなものなんやで。



サコヤンの独り言

「世間の当たり前は絶対的なものではなく、世間の当たり前から脱した生き方もある」