「ある」を見る生き方を前提とする。
ものすごく大事。
なぜなら、これが、人としての本来の姿だから。
人は、誰もが、様々なものがある状態で生まれてくる。
赤ちゃんは愛の塊で、深い愛を持って生まれてくる。
小さい時は、平気でプロ野球選手になると豪語するほどの自信を持って生まれてくる。
やる気だって、楽しむ心だって、無邪気さだって、生まれながらにして持っている。
人って、実は、「ある」が前提なんよね。
なのに、育つ過程で、様々な「ある」を信じ切ることができなくなる。
疑うようになる。
拒むようになる。
そして、様々なことを経験する内に、自分を減点するばかり繰り返す。
すると、ある程度減点が溜まると、失ったものばかりを意識する。
失ったものに焦点を合わせるから、失ったものしか意識できなくなる。
ゆえに、「ない」ばかりを見て、ないことを当たり前とし、ないことを前提とする。
多くの人が陥ってしまっている。
ただ、ここで一つ考えてもらいたいものがある。
自分自身を減点したからといって、存在していた想いが完全に消滅するだろうか。
どんなに減ろうと、完全になくなることなんて絶対にない。
愛がない、自信がない、やる気がない、といった言葉はよく使われているが、本当にゼロなのか。
いや、ゼロではない。
だって、どんなに減ろうと、ゼロになることはないから。
正確に言うなら、弱まっている、薄まっている、減少しているといった類。
こうした言葉は、部分否定であり、存在自体は認めている。
だが、「ない」という言葉は完全否定であり、存在自体を認めていない。
双方は、感覚的にはチョットの違い。
けど、何百回、何千回と自分に言い聞かせると、まったく異なる結果を生み出す。
部分否定の場合は、存在自体は認めているため、自分の意志や意識次第で強めることもできるし、高めることもできる。
だが、完全否定の場合は、存在自体を認めていないため、まず、存在そのものを認める必要がある。
存在を認めた上で、想いを高め、強める必要がある。
超えていくものが多ければ多いほど、人は、敬遠するもの。
ゆえに、完全否定をすると、自分自身が苦しむだけなんよね。
なんせ、完全否定するというのは、選択肢として排除することを意味するから。
選択肢が減り、選べる選択肢が減ることで、自分自身の世界が狭まる。
自分の判断で、自分の世界を狭め、生きにくくする。
そんなことしたって、仕方がない、意味がない。
でも、意味がないことを多くの人がしている。
完全になくなりはしない想いを、「ない」という言葉を使って完全に否定する。
「ない」という言葉は、短い表現で使い勝手は良いが、言葉の力が強いことを多くの人は認識していない。
完全に否定する言葉であることを忘れてしまっている。
何度も何度も、完全否定する言葉を使っていると、本当に完全に否定してしまう。
完全に排除してしまう。
そうなってからでは、受け入れることって、膨大な時間と労力を要するんよね。
だったら、最初から、完全否定しなければ良い。
そもそも、どんな感情も、完全に消滅するわけではないから。
弱まるだけで、薄まるだけで、意識できなくなるだけで、自分の心のどこかには存在しているもの。
どんな想いも、どんな感情も。
よって、人は、「ある」が前提なんよね。
どんな人にも、その人なりの愛はあるし、自信もあるし、勇気もある。
やる気もあるし、楽しむ心もあるし、無邪気さもある。
役に立てるものもあるし、与えることができるものもあるし、喜んでもらえるものもある。
そして、こうしたものは、絶対になくなりはしない。
ゼロになることはない。
それは、言い切れる。
単に、「ない」という発想自体が誤りだったんよね。
単純に、「ある」か「ない」かで考える、人の特性が災いとなっている。
「ある」か「なし」の二択ではなく、「ある」の一択。
ただ、「ある」の中で程度の違いがあるだけ。
弱いからといって、「ない」ということにはならない。
なぜなら、存在自体はしているんやから。
完全に否定し、完全に拒むと、それは自分にはね返ってくる。
数年後、否定したものや拒んだものをやる必要が出てきた時に、膨大な時間と労力を要することになる。
そうならないためにも、普段から、「ある」か「なし」で判断しないこと。
こうした癖を身につけること。
すごく大事。
感情においては、強いか弱いか、高いか低いか、程度によって判断すること。
そして、発する言葉も、程度の判断ができる言葉を使うこと。
安易に「ある」か「なし」で判断しないこと。
後々のことを考えて、使う言葉を意識しなよ。
なんたって、安易な言葉を繰り返し使うことは、自分自身を苦しめる結果を招くことになるから。
そもそも、人は、多くのものを初めから持っている。
ゆえに、「ある」が前提。
「ある」が前提であるため、いつも、「ある」を意識して過ごすんやで。
「ある」ものを自覚しながら、それを噛みしめながら、生きるんやで。
すると、「ある」ということを実感しながら、日々を送ることができ、気持ちを安定させて生きることができる。
当たり前だが、「ある」を見て生きるのと、「ない」を見て生きるのでは全然違うんやで。
だったら、「ある」を見ることができるよう努めなよ。
それが、自分のためになるから。
案外、そんなもの。
サコヤンの独り言
「ない、という言葉を使って完全否定するのはもったいない」