多くの人が育つごとに、得することだけをやろうとする。
得すると分かっていることだけをやろうとする。
得する可能性が明らかに高いものだけをやろうとする。
様々なことを経験することによって…
人は、経験を積み重ねていくごとに、やれることが増え得るものが増える。
結果が出ていない最初の時は、結果を出そうと無心になってやることが多い。
だが、いつまでも無心な心境でやれる人は少ない。
なぜなら、どうすれば結果が出るかが少しずつ分かってくるから。
次第に結果を出せるようになってくるから。
結果を出すことによって、それに付随して得するものを得るようになるから。
すると、結果を出すことが目的ではなくなる。
結果を出すことによって付随するものを得ることが目的となる。
得するものを得ることが行動の動機となる。
もちろん、何かを得るということは、大きなモチベーションとなる。
けど、何かを得るためにやる、というのは危険な一面も含んでいる。
なんたって、何もなければ、やらなくなるから。
得するものがなければ、行動できなくなってしまうから。
よって、得することがある時だけ動くようになるから。
ただ、いつまでも、明らかに得することだけをやれるものではない。
だって、何をするにしても、完璧に上手くいくことが最初から分かっているものなんて少ないから。
大概は、どうなるか分からない。
上手くいくかもしれないし、上手くいかないかもしれない。
もしくは、どうもならないかもしれない。
よって、やる前から明らかに得することが分かっているものなんて少ない。
自分の力がやることよりも大幅に上回っているなら、やる前から得することが分かるもの。
でも、自分がやることというのは、時が経つと共に自分の力と拮抗してくるし、自分の力を上回ったりする。
とはいえ、こういったものを乗り越える必要がある。
ゆえに、得することだけをやるわけにはいかない。
上手くいくかどうか分からないことでもやる必要がある。
やったとしても、どうもならないことであってもやる必要がある。
そういうものを積み重ねることによって、上手くいくことにつながっていくんやから。
やれば得られる、ということが当たり前になると、得るためにやるようになる。
順番が逆になってしまうんよね。
得るためにやる、ということが当たり前になると、得ることがないとやらなくなる。
すごい危険。
だって、行動基準が、得ることがないとやらない、ということになると人生において大きなマイナスとなるから。
ただ、知らない内に、こういう習慣を身につけてしまっている人は意外と多い。
なぜなら、にんじんをぶら下げるようにして、親に育てられた人はたくさんいるから。
お皿を洗ったら10円。
お風呂を洗ったら10円。
ゴミ捨てをしたら10円。
といったように、家事の手伝いにある金額が設定され、お金をもらうために家事を手伝った人は結構多いものだから。
すると、お金がもらえるから家事を手伝うようになる。
得するから家事を手伝うようになる。
こういうことが自分の行動基準となると、自分から何も始めることができなくなる。
新たな行動を何もできなくなる。
なんたって、新たな行動をする時や新たなことを始める時って、大概、得することが明らかになっていないから。
得られるものがハッキリしているからやる、という行動基準を確立させると、得られるものがハッキリしていない選択肢を排除するようになる。
そして、得られるものが何もない状態から得られるものを増やしていく、といった段階を踏めなくなる。
そもそも、何をしても、どんなことが起きても自分のためにすることはできる。
だったら、得するかどうかなんて関係なく、何だってやれば良い。
何をしても、自分のためになるんやから。
得することがハッキリしていなければやらない、という制限を設ける必要はない。
たとえ、損することになっても良いから、やれば良い。
やってどうもならなくても良いから、やれば良い。
何も、今、得する必要はない。
得しなければいけないことはない。
何をしても自分のためにすることができるなら、何でもやらなきゃ損。
やる前に、行動を絞る必要はない。
やる前に、得するかどうかを判断する必要はない。
得しても、損しても、何もなくても、別に構わないんやから。
実際に、やって、出た結果をあるがまま受け入れたら良い。
どうせ、どんな結果が出ても、自分のためにすることができるんやから。
別に、得しなければならないことはない。
得することがあるからやる、というのは、絶対的な行動基準ではない。
むしろ、刷り込みによって植えつけられた誤った行動基準。
本来は、何をしたって良い。
どんなことをやっても良い。
行動に制限を設けることなく、堂々と自ら向かっていけば良い。
得することがハッキリと分かっていることだけをやる、というのが唯一の選択肢ではない。
実際は、選択肢はたくさんある。
得することがハッキリとしていない選択肢もある。
損しそうな選択肢もある。
やったところで、どうもならない選択肢もある。
そして、どの選択肢も、選ぶことは可能。
本来、何をしても自由。
選択肢に制限はない。
制限を設けていたのは、過去の自分。
だが、絶対的なものではない。
制限が必要ないと気づいたなら、制限を手放せば良い。
それで、どんな行動でもやれるようになるから。
案外、そんなものなんやで。
サコヤンの独り言
「得することがハッキリ分かっていることだけが選択肢ではない」