何だってやったら良い。
想ったことならやったら良い。
自分の好きなようにやったら良い。
何もためらう必要はない。
だって、一度きりの人生を生きているのは自分のなんやから。
あれこれ考える必要もないし、余計なことを気にする必要もない。
ためらっていても、どうなるわけでもない。
それに、ためらっていることをやって上手くいかなくても、背負えないリスクを負わないことが多い。
もし、背負いきれそうにないリスクがあるなら、熟慮した方が良いが、そんなこと滅多にない。
そもそも、背負いきれないリスクがあるものは、思い浮かばないようになっている。
ゆえに、何をしても、背負うリスクなんて高が知れている。
多くの場合、どうってことないリスクを必要以上に考えているだけ。
考えるといっても、上手くいかなかったらどうしよう。
やって嫌われたらどうしよう。
といった程度。
お金を失うことでなければ、どんなことでもやれば良い。
他人に変に思われたとしても、変に思われたことによって得た経験が、自分のためになる。
他人に嫌われたとしても、人に嫌われたことによって得た経験が、自分のためになる。
望む結果が出なかったとしても、その結果を出すまでに得た経験が、自分のためになる。
何をしようと、どうなろうと、結局は自分のためになる。
変に思われたらどうしよう、と変に思われることを嫌なものとして決めつけるから、変に思われることに抵抗を感じてしまう。
嫌われたらどうしよう、と嫌われることを悪として決めつけるから、嫌われることを怖れてしまう。
望む結果が出なかったらどうしよう、と望む結果が出ないことをいけないものとしてとらえるからためらってしまう。
だが、実際は、変に思われたってどうってことない。
嫌われたって、意外と大丈夫。
望む結果が出なくても、結構、受け入れることができる。
目くじら立てることでもない。
オーバーにとらえることでもない。
ゆえに、何をするにしても、堂々とやれば良い。
何をしても、どうなろうと、意識さえあれば、どんなことでも自分のためになるもの。
自分にとって必要な経験となるもの。
大きくなるための糧となるもの。
とにかく、やれば自分のためになる。
でも、やらなければ、何も変わらない。
何も変わらず、過ごしていても、どうなるものでもない。
だから、何だってやったら良い。
やってどうなるかを確かめたら良い。
やる前にあれこれ想像したって意味がない。
やることによって、自分の肌や感覚で実際に感じることが大事。
自分が体験することで、得る情報はたくさんある。
しかも、質の良い情報を得ることができる。
何もせずに心配ばかりしていても、何もならない。
考えるだけでは、事態は進展していかない。
ゆえに、やることが重要になってくる。
やることによって、事態を進展させれば良い。
行動することって、自分が想っている以上に、難しいことではない。
難しく感じさせているのは、自分の余計な感情。
物事をあるがままとらえることができなくなっている自分の心。
自分に素直になれば、自分が想ったことは容易にやれるもの。
ためらうことなく、当たり前なこととしてやれるもの。
何だってやれば良い。
やったからといって、大きなリスクを負うものではないから。
むしろ、自分の人生が大きく動くことの方が多い。
大切なのは、意識を修正すること。
今まで嫌と感じていたものが、実は、嫌なものではないことを自覚すること。
嫌と決めつけると、それ自体を遠ざけてしまう。
だが、嫌なものではないことを自覚すると、受け入れることができるようになる。
どうってことないことに気づくことができるようになる。
やっても大丈夫であることを理解するようになる。
そもそも、何をしようと、どんなことが起きようと、自分のためにすることはできる。
あらかじめ、自分のためにすることができることが分かっているなら、わざわざためらう必要はない。
ためらってプラスを得る機会を失う必要はない。
堂々とやって、プラスを一つ得たら良い。
一つ一つ積み重ねることで、自分自身は成長することができるんやから。
何をしても、意識さえすれば、そこから学ぶことはある。
どんなことからも学んで、自分の経験値を増やせば良い。
そして、少しずつ大きな人になれば良い。
どんな経験も自分のためになることはまちがいない。
望む結果が出ても、望まない結果が出ても自分のためにすることはできる。
よって、ためらうことなく何だってやれば良い。
それが、自分の成長につながるから。
案外、そんなものなんやで。
サコヤンの独り言
「何をしても、どうなっても自分のためにすることはできる」