他人から嫌われることを怖れている。


多くの人が、無意識の内に怖れている。


なんせ、嫌われると、自分がどうなるのかが分かっているから。


嫌われると、いじめに遭う可能性も高まり、自分の立場を危うくすることを小さい時から分かっている。


いじめという言葉が、横行することで、無意識の内にいじめを意識してしまっている。


嫌われた時のことを、無意識の内に抱いてしまっている。


ゆえに、嫌われないことを強く意識するようになっている。


ただ、嫌われないことを強く意識することは、あまり良いこととは言えない。


なぜなら、嫌われることを怖れて、人に対して何も働きかけなくなるから。


自分を抑えるようになり、当たり障りのない行動しかしなくなるから。


嫌われることを怖れ、自分を抑えて他人と接していても、心は疲弊していくだけ。


もちろん、本音ばかりぶつけていても、相手に嫌な想いをさせることになりかねない。


だが、建前ばかりで、自分を抑えて接していても、自分のことは相手に伝わらない。


しかも、自分を抑えていると、抑えることに慣れ本音を出せなくなってしまう。


ゆえに、本音と建前を使うバランスは、すごく重要。


本音ばかりではギスギスした関係になりがちだし、建前ばかりでは自分自身を見失う。


でも、他人から嫌われることを怖れている人は、自分の本音を相手に伝えたがらないもの。


なんせ、本音での表現は、いささか厳しくとらえられることがあるから。


相手に受け入れる態勢がなければ、本音を言うことで相手を傷つけることにもなる。


傷つけると嫌われる可能性が高まるため、最初から本音を伝えない人も多い。


だから、相手を傷つけないためにも、中途半端な言葉を使いがち。


ボヤッとさせることで、関係が上手くいっているように見せることができる。


曖昧な表現や建前というのは、ある意味、関係性を保つ潤滑油にもなる。


嫌われることを怖れる人がよく使う手。


嫌われない手法として、結構効果的。


けど、実際のところ、必要以上に他人から嫌われることを怖れる必要はないんよね。


誰かに嫌われたからといって、それですべてが終わることはない。


嫌われたら嫌われたで、そこから何かに気づき、何かを学び、次に活かせば良い。


自分を嫌う人は、勝手に嫌わせておけば良い。


わざわざ、そういう人と関わる必要はない。


学ぶキッカケを与えてくれたことに感謝をして、次に意識を向ければ良い。


嫌われたことが何かしらに活きてくるはずだから。


ただ、嫌われると自分の存在が否定された感じがして、嫌な想いを抱くかもしれない。


だが、自分の存在が否定されたと感じているのは、自分なんよね。


あくまでも、自分の思い込みでしかない。


しかし、嫌な想いを抱いたとしても、大事なのは、それを引きずらないこと。


嫌な想いを抱いたとしても、それをプラスに転換すること。


嫌われたイコール嫌なことではない。


たとえ、嫌われたとしても、そこから何かを得ると、プラスに転じることができる。


嫌われるイコール嫌なことというのは、小さい時から刷り込まれた思い込み。


実際は、必ずしも、そうではない。


嫌われたことを、糧にすることはできる。


糧にすれば、自分のためにすることはできる。


糧にするかどうかは、単に、自分の意識次第。


とらえ方次第。


でも、すべての人に好かれることなんてできやしない。


誰かに好かれることもあれば、誰かに嫌われることもある。


けど、自分を嫌う他人からも学べることはある。


なぜなら、嫌うにも嫌う理由があるから。


その理由を知り、最もな理由であれば改善に努めれば良い。


すると、今まで以上に成長することができるから。


理由を知ることができるなら、その理由を参考に修正したら良い。


理由を知ることなく嫌われたなら、自分なりにその理由を考えて修正したら良い。


たとえ、ズレていたとしても、何かを修正することで自分のプラスにはなる。


そもそも、理不尽な理由で自分を嫌う人は滅多にいない。


嫌うには、何かしらの理由がある。


自分では気づいていない理由がある。


相手にとって、何か鼻につく理由がある。


それを意識するだけでも、自分のためになる。


嫌われることによって、意識するキッカケを得るのであれば、それはそれで自分のためになる。


確かに、誰かに嫌われることによってその人との関係性は悪化するかもしれない。


だが、悪化したことによって何かを学び、次出会う人に活かすことができれば、それはそれでバランスが取れている。


何も、目の前にいる人を必ず喜ばせなければならない、というわけではない。


自分の力が不足していると、目の前にいる人に迷惑をかけるかもしれないし、傷つけるかもしれない。


しかし、これはこれで構わない。


だって、力をつけるには必要な過程だから。


今、人に迷惑をかけたのなら、先で誰かの力になれば良い。


迷惑をかけることによって人は成長する、という面があることも事実。


必ずしも、迷惑をかけてはいけないわけではない。


嫌われてはいけないわけではない。


時には、必要なことだったりする。


人を傷つけて、申し訳ない気持ちを抱くと、それは強く記憶に残る。


ゆえに、次からは、意識して取り組むようになり、意識のレベルが高まる。


こうして、成長していくもの。


迷惑をかける時は、迷惑をかけたら良い。


そして、嫌われたのなら、ちゃんと受け入れつつ学び、別な機会で誰かの役に立てば良い。


人生全体でバランスをとっていけば良い。


人は、完璧な存在ではないんやから、そうやって考えるくらいで丁度良い。


今がすべてではなく、どの人にも先があるんやから、先に進むにつれ良くなれば良い。


迷惑をかけることも、傷つけることも、嫌われることもより良い自分になるために必要なことなんやから。


だから、嫌われることを怖れて、自分を抑える必要はない。


堂々と他人に対して働きかければ良い。


それが、結局、自分のためにつながる。


案外、そんなものなんやで。



サコヤンの独り言

「他人に嫌われてもそれを自分の糧にすることはできる」