自分を信じるのに理由は必要ない。


なんたって、人は皆、最初は自分を信じていることが当たり前だから。


生まれながらにして、自分を信じることができていない人なんて、一人もいない。


育つ過程で、自分を信じることができなくなっている。


そして、自分を信じることができなくなったことを前提にしているから、自分を信じることができる理由が必要となっているんよね。


何か理由があれば自分を信じることができると思って…


でも、何かができるからといって、それが本当の自信につながるかは疑わしい。


なぜなら、何かできるといっても、よっぽど卓越しているか、特殊なものでない限り、自分よりできる人は世の中にはたくさんいるから。


中途半端にできることに自信を持っていると、自分以上の人に出会った時、簡単に心が折れる。


ただ、簡単に心が折れるような自信は、本当の自信ではない。


だって、本当の自信というのは、そう簡単に揺らがないものだから。


何かができる、何かを成し遂げたというだけでは、一過性の自信に過ぎない。


何かに頼って、自分を信じることは、意外ともろい。


そもそも、人は皆、個性があって独自の素晴らしさがある。


存在しているだけで、価値があり意味がある。


自分を信じるというのは、自分の存在を信じることなんよね。


何かができるから自分を信じることができる、というわけではない。


何か素晴らしいことをやったから自分を信じることができる、というわけではない。


人より優れているから自分を信じるとことができる、というわけではない。


こういうのは、しょせんはオマケ。


自分の存在、自分の命、生きている自分、といったものをありのまま認めること。


それが、自分を信じる、という本当の意味なのではないか。


そして、ありのままの自分を認め、ありのままの自分を信じていると、自分にとって良いことはたくさんあるんよね。


自分らしく生きることができるし、ストレスはなくなる。


人と比べる必要がなくなり、人と自分のあるがままの姿をとらえることができる。


不安や怖れが軽減し、新たな行動に取り組みやすくなる。


なのに、ありのままの自分を信じながら大人になることって、容易なことではない。


だって、小さい時から競争意識を植えつけられ、人と比べることを覚えるから。


理不尽なことは多く、心を傷つけることは度々あるから。


組織に所属すると、周りに合わせることを強要され、ありのままの自分では生きにくいから。


ありのままの自分を信じにくい仕組みができあがっている。


そのため、自分を否定したり、疑って、自分を信じなくなってしまう人は多い。


こういう状況に陥るからこそ、信じることができる理由が必要となるんよね。


ただ、信じることができる理由を探すのは、応急処置でしかない。


なぜなら、自分を信じることができる理由を探す状態というのは、自分を信じることができていないことを前提としているから。


自分を信じることができているなら、わざわざ、自分を信じることができる理由を探す必要はない。


ゆえに、自分を信じることができる理由を探すよりも、自分を信じることができなくなった要因を手放すことが大事なんよね。


とにかく、自分を信じることができていない、という前提を覆すことの方が優先順位は高い。


だって、いくら応急処置をしたって、根本的なことを直さなければ、同じことを繰り返すだけだから。


もちろん、時には、一つの素晴らしい出来事が自分に大きな影響を与えて、自分を信じることができるようになることもある。


自分を信じることができていないことを前提にしていたにもかかわらず、瞬時にひっくり返ることもある。


だが、そうあるものではない。


ゆえに、着実に、自分を信じることができなくなった要因を手放すことが大事。


一つずつ手放していると、ある時、自分を信じることができている状態が前提となるから。


最初の頃の自分に戻ることができるから。


人は、生きている上で、余計なものをたくさん身につける。


様々な人と出会い、多くの影響を受ける。


色々な経験を重ね、自分独自の価値観を築く。


ただ、こういうものが、本来の自分を認めることができなくしている。


本来の自分を信じることができなくしている。


日々を生きることによって、本来の自分からかけ離れている人は山ほどいる。


言い方は悪いが、ひょっとすると、これが一般的な大人になる、ということなのかもしれない。


だが、第一線で活躍している人の多くは、本来の自分を保ち続けている。


偽りの自分で生きることなく、本来の自分で生き、輝いている。


今を楽しんでいる。


こう考えると面白いよね。


なんせ、本来の自分を保ち続けている人が第一線で活躍し、本来の自分を見失い自分を信じることなく生きている人が平均的な大人になっているんやから。


冷静に考えると、こうなるのも分かる。


なんたって、社会は平均的な人を育てるような仕組みとなっており、企業は平均的な人を多く求めるようになっているから。


奇抜な人を多く集めるより、平均的な人を集めた方が企業としては全体を動かしやすい。


個性が強い人は、少数で良いんよね。


組織の中では…


生きている中で、本来の自分を見失い、本来の自分を信じることができなくなった人は、知らず知らずの内に、平均的な大人になることを選んでいるのかもしれない。


生き方に器用な人ほど、平均的な大人になる道を進むのかもしれない。


でも、生き方に不器用な人ほど、本来の自分の姿で生きている人が多い気がする。


なぜなら、就活に失敗した人で、起業する人は意外といるものだから。


不器用なために、多くの人が通る道からズレ、自分を貫いて生きる人もいる。


どちらが良いかは分からない。


平均的な大人になるとある程度の安心安全は保たれるが、でも、それだけ。


多くの人が通る道からズレつつも自分を貫くと、いばらの道を進むかもしれないが、自分らしさを保つことができ、楽しく生きる可能性は高くなる。


どちらを選ぶかは、その人の特性によって変わってくる。


とにかく、自分を信じる、ということを真剣にとらえなよ。


どうとらえるかによって、人生は大きく変わっていくから。


案外、そんなものなんやで。



サコヤンの独り言

「自分を信じることが前提となるよう意識しつつ、工夫しなよ」