人の命は、どれも唯一無二の命。


同じものは二つとてない。


どの命も貴重でオリジナル。


この大切な命が吹き込まれ、人としてこの世を生きる。


自分という人生を一生懸命に生きる。


命が吹き込まれ、今を生きている人は、すべてが貴重な存在。


誰しもが、大切な存在。


皆が皆、かけがえのない存在。


普段は、こういったことを意識していない人は多い。


だが、無意識の内に感じている人は山ほどいる。


なんたって、どの人であっても、自分の存在を傷つけないように動くから。


自分の存在を傷つけるような行動は避けるようにして生きているから。


自分の存在を傷つけるようにして生きる人は、滅多にいない。


それが普通。


どの人も、自分なりに自分の存在を大切にしている。


そして、多くの人が、自分の存在を傷つけることを嫌がっている。


しかも、自分の存在が否定されることを無意識の内に嫌がっている。


だから、他者を強く意識したり、顔色をうかがいながら取り組んだりする。


なんせ、自分の存在が否定されているように感じるのは、大概、他者と関わっている時だから。


単に、一人でいる時は、何かを一人でやっている時は、自分が否定されているとは感じない。


そりゃそうじゃよね。


だって、一人でいれば自分を否定する人が誰もいないんやから。


けど、他者と関われば、他者に否定されるケースは意外とある。


自分の想いを主張し、自分の想いを貫こうとすると…


なぜなら、意見がぶつかる上に、自分の主張が相手に求められているとは限らないから。


自分の主張が相手に望まれるものでなければ、当然のように自分の主張は否定される。


わざわざ、必要ないものを受け入れてくれる人はいない。


受け入れられる主張は、その人にとってメリットがあるもの。


メリットがない主張は、大概、却下される。


ただ、却下されたからといって、自分を責める必要はない。


自分の力がないことに落ち込む必要はない。


いくら否定されたからといって、自分のすべてが否定されたわけではない。


自分という存在すべてが否定されたわけではない。


そもそも、人格すべてを否定する権利なんて誰にもない。


一つ一つの命はどれもが大切な命だから。


その命が吹き込まれている一つの存在すべてを否定できるほど、偉い人はこの世にいない。


どんなに地位がある人であっても、そんな権利はない。


だから、何かで否定されたからといって、自分のすべてが否定されたというわけではない。


言葉足らずで否定されることもあるが、それは、部分的に否定されているにすぎない。


相手にとって望まない部分を否定していたり、論点がズレていることを否定していたり、相手の意向と異なる部分を否定しているだけ。


否定する側も、心を折るために否定しているわけではない。


むしろ、自分のことを考えてくれているからこそ、否定してくれている場合が多い。


だって、否定することなく、何も伝えずに、何事もなかったかのようにすることもできるんやから。


否定的な言葉は、一見、傷つくように感じる。


受け入れる姿勢がなければ、嫌味に聞こえるだろう。


怒られている感が一杯になり腹立たしくなるだろう。


自分が悪く感じ、自分を責め落ち込んだ気分になるだろう。


否定的な言葉を否定的にとらえると、どうしてもマイナスにしかとらえることができない。


このままでは、否定的な言葉を受ける可能性があるものをできる限り避けるようになる。


新たなことに取り組まなくなる。


人に対して、自分から働きかけなくなる。


なんせ、否定的な言葉を受けて傷つきたくないから。


でも、否定的な言葉って、受け入れる姿勢を持って聞けば、結構、貴重なアドバイスがふんだんに含まれているんよね。


自分自身の至らない部分を的確に指摘してくれている。


厳しい言葉によって、大切なことに気づかせてくれている。


あまり、気づかないことだが、相手の何かしらを直接否定することって、すごくエネルギーがいることなんよね。


なんたって、嫌われる覚悟を持って相手に伝えるんやから。


否定的な言葉や厳しい言葉というのは、相手に嫌がられる可能性が高くなる。


仲良くするのであれば、言わない方が良い。


それでも、あえて言ってくれるのは、自分の成長を期待してくれているから。


否定されたり、厳しい言葉を受ける内がある意味、華なんよね。


無関心を装われるとかなりピンチ。


これは、どの組織にいても、どの人と関わる上でも言えること。


自分がいるのに、いないように扱われることが、最もこたえる。


自分がやっていることに対して、何の反応がないのは、すごく辛い。


なぜなら、自分が必要ないのではないかと、考えてしまうから。


ただ、自分が何もしなければ、次第に、自分に対して人は無関心になる。


ゆえに、他者から否定されることを怖れずに、他者に対して、直接働きかければ良い。


他者が望むことを意識しながら…


すると、他者が望むものと自分が主張するものとが合うようになっていくから。


そもそも、他者に直接働きかけて、通用しなかったとしても、自分の存在すべてが否定されたわけではない。


たとえ、主張したものを否定されたとしても、自分が自分を否定する必要はない。


否定されたのは主張した部分であって、自分の存在ではないから。


誰かに否定されたとしても、気にせず、また、主張を繰り返せば良い。


主張している内に、その主張を必要としてくれる人と出会えるものだから。


とにかく、自分の主張が否定されたからといって、自分の存在を否定されたわけではない。


そのため、めげることなく、何回でも挑めば良い。


否定されることもあると、あらかじめ受け入れて、ちゃんとやれば良い。


それで大丈夫だから。


これで、案外、上手くいくものなんやで。



サコヤンの独り言

「受け入れられなくても、すべてが否定されたわけではない」