元々、人には承認欲求というのが備わっている。
だから、人に認められたいという想いがはたらく。
だが、認められたい想いがあるがゆえに、かえって、人に認められないことを嫌う。
こういった想いを抱いたまま育つことで、いつしか、人に認められることが善で、認められないことが悪、といったことが刷り込まれている。
そのため、はじめから、人に認められることをやり、人から認められないことをやりたがらない傾向がある。
なんたって、人から認められたら嬉しいから。
でも、最初から認められることって、世の中にはそんなにないのが事実。
この事実を履き違えていると、案外、痛い目に合うことが多い。
しかも、立ち上がれないほど、傷を負う場合もある。
だからこそ、最初から認められようとスケベ心は出すものではない。
なんせ、最初は、認められないことが当たり前だから。
なぜなら、認められるほどの力を持っていないから。
当然のように認められないことを経験し、どうやったら認められるのかを工夫する。
それでも認められなくて、また工夫する。
そうやって、一つひとつ工夫を重ねて、ようやく、人に認めてもらえるものとなる。
大概のことがそう。
確かに、人から認められることは嬉しいことだが、承認は自分から求めるものではない。
自分がとった行動に対して、結果に対して、後からついてくるもの。
自ら求めようとして得るものではない。
逆に、求めようとすればするほど、様々なことを自分にとって都合の良いように計算してしまう、期待をしてしまう。
しかも、求めれば求めるほど、かえって、本来の自分から遠のいてしまう。
不思議なことだが、なぜか、そうなっている。
ゆえに、承認というのは、自分から求めるものではないのだろう。
また、求めない方がいいのだろう。
だって、後からついてくるものだから。
そもそも、人には認めれたいという欲求があるからこそ、認められないことを嫌う想いが生じる。
ただ、ここで、重要なのは、認められないことを嫌う想いなんよね。
この想いが強ければ強いほど、何か新しいことや、挑戦といったものを避けるようになってしまう。
なんせ、未知なるものには、上手くいかない要素がたくさん含まれているから。
大概、上手くいけば人に認められ、上手くいかなければ、人からは認められない。
だから、人から認められない可能性が高い未知なることを警戒し、避けてしまう。
なんたって、人から認められないことを怯え、拒んでいるから。
そういったことが理由で、一歩を踏み出せなかったりするんよね。
でも、冷静になって考えてみると、人から認められることって、自分が思う以上に大切なことなのかなぁ・・・
人から認められたところで、チヤホヤされたところで、どうなるわけでもない。
もちろん、嬉しいし、自信にもなる。
けど、それだけんなんよね。
わざわざ、人から認められることを求める必要はない。
ゆえに、人から認められたいとか、人に認められないことを嫌うとか、ハナから意識しない方がいいのだろう。
意識するからこそ、求めたり、拒んだりするんやから。
それに、認められないことは、悪でもなければ、恥ずかしいことでもない。
だって、はじめは、誰だって、認められないところから始めるんやから。
それよりも、認められないことを認められるように努力をすることなく、諦めていることの方が何倍も恥ずべきことなんやで。
なんせ、自分を信じることなく、自分の可能性を捨てているんやから。
だから、認められたいと意識することもないが、認められないことを拒む必要もない。
なんたって、過剰に人の目を意識して生きる必要はないから。
そもそも、認められないからといって、なんだっていうの。
自分を認めていない人ほど、いざ、認められるようになると、手のひらを返すように認めてくるようになるもの。
そのため、人が自分にする評価なんて結構いい加減なものなんやで。
そんないい加減な評価を意識したところで、気にしたところで、自分を見失うだけ。
ゆえに、最初から、人に認められたいとか、人に認められないことを嫌ったりする意味がない。
そもそも、自分の人生は、他人にどう思われるかによって左右されるものではないから。
自分の人生は、自分が思うように生きたらエェ。
たとえ、人に認められようと、人に認められまいと・・・
こういったことは、もはや関係ない。
だって、生きる上において、そないに重要なものではないから。
重要なものではないものを、重要なものと勘違いしてしまうから、歯車がおかしくなっちゃうんやで。
何が重要なのかを、日頃から、考えて過ごしなよ。
それが、自分のためになるから・・・
サコヤンの独り言
「認められても認められなくても構わない」