すべての生きているものにとって、命は有限。
決して、永遠にあるものではない。
なのに、永遠にあるように感じてしまっている自分がいる。
命がなくなるのは、まだ当分先であろうと、うつつを抜かしている自分がいる。
確かに、命がなくなるのはまだまだ先かもしれない。
ただ、何が起こるかわからないのが今の世の中。
それに、うつつを抜かしている場合ではない。
なんたって、自分の人生を本気で生きたとしても、できることはたかがしれているんやから。
もし、うつつを抜かしながら生きていたら、それ以上のことはできないことになってしまう。
そもそも、人の可能性は誰もが無限大で、しかも、膨大な力を備えている。
だが、どんなに可能性が無限であろうと、膨大な力を備えていようと、そういったものを使わなければ、育んでいかなければ、まったく意味がない。
自分の可能性を、自分の力を無駄にしているのなら、本来の十分の一も発揮することはできないであろう。
それが現実。
命には限りがあるため、自分ができることにも限りがある。
この意識を持って生きることは、ものすごく大切なのではないか。
なんせ、命は永遠にあるように錯覚をし、今を生きているから、今日できることでも、明日に延ばしたりしてしまう。
だって、多くのことを、明日やろう、いつかやろうと思って後延ばしにしている。
それが現状。
本来、明日というのは、概念であって実在するものではない。
なぜなら、明日になれば、それは今日になるんやから。
明日というのは、いつまでもつかみきれないもの。
それなのに、明日やるだとか、いつかやるだとか、言っていていいのであろうか。
そう言って、本当にやることって、結構、少ないもの。
こうして生きている自体が、自分の命を疎かにしている証なのではないか。
そもそも、自分の命は、ものすごく貴重なものなのに・・・
命に限りがあるということは、自分の人生で使える時間にも限りがあることを意味する。
この限られた時間をどのように使うかは自分の自由。
ただ、どのように使うかによって、結果は大きく異なってしまう。
しかも、使える時間の中でも、自分のエネルギーが満ち溢れている期間というのも限りがある。
なんせ、若い時と同じように、いつまでも頭と身体がはたらくことなんて、あまり考えることはできないから。
時と共に、自分自身は衰えていくもの。
だからこそ、エネルギーが満ち溢れている時には、最大限にエネルギーを発揮する必要がある。
だって、その期間というのは、限りがあるんやから。
できることは、できる時に真剣にやる。
それが、自分の命を輝かせることにつながるんやで。
仮に、やらなければ、後で、必ずといって後悔することになっちゃうよ。
それでもいいなら、今を、これからを適当に過ごしたらエェ。
きっと、今とさほど変わらない日々が、この先も続くであろう。
そして、いつしか、あの時もっと動いていたらなぁ・・・
と、後悔する日がやってくるはず。
命には限りがあり、自分のエネルギーが満ち溢れている期間にも限りがあるからこそ、今日を疎かに生きるわけにはいかない。
なんたって、刻々と自分の命は終わりに近づいていっているんやから。
一日経てば一日だけ終わりに近づき、一年経てば一年終わりに近づく。
これは、まぎれもない事実。
だからこそ、今日という日を、無駄にするわけにはいかない。
疎かに生きるわけにはいかない。
だって、真剣に生きても疎かに生きても、同じ一日なんやから。
どのように生きても、今日が終われば、それだけ、自分の命の終わりに近づく。
ゆえに、疎かに、適当に、無駄に生きるほど、余計な時間が自分にはない。
命には限りがあり、刻々と命の終わりに近づいている、という事実。
限られた時間だからこそ、この時間をできる限り、充実したものに、輝いたものに、納得できるものにして生きようよ。
今までが、あまりにも無駄に、漠然に、適当に過ごした時間が多かったからこそ、これからは、そんなことがないように、一瞬一瞬を大切に生きる。
それが、自分の命を輝かせることになり、自分の可能性を拓くことになり、自分の力を発揮することになるはずじゃから。
自分の命は永遠ではない。
いつ、なくなるのかも分からない。
ただ、生きることができる時間には、限りがあることはまちがいない。
だからこそ、今を真剣に生き、自分が納得できるように過ごすことがものすごく大事。
こう生きるかどうかで、自分の人生は大きく変わっていくから。
限られた時間を、精一杯生きてみてはどうであろう。
そうやって生きれば、必ず、自分のためになることは、まちがいない。
限られた時間を大切に使いなよ・・・
サコヤンの独り言
「自分が使える時間には限りがある」