信じることは時間がかかり、疑うことは一瞬でできる。
信じることは難しく、疑うことは簡単にできる。
信じることは自分にプラスを呼び、疑うことは自分にマイナスを引き寄せる。
信じることは、生きていく上でものすごく大切なこと。
小さい時に習ったような気がする。
なのに・・・
いつからだろう。
人を疑いの眼で見るようになったのは、自分を信じることができなくなったのは・・・
小さい時には、そうではなかったのに・・・
大きくなるにつれ、様々な経験をするにつれ、素直に自分を信じることができなくなっている。
素直に、人を信じることができなくなっている。
成功体験よりも失敗体験の方が頭に強く残り、いつも心配をし、不安になり、恐怖を抱く。
自分のことなのに、自分のことを信じることができないことがいかに多いか。
特に、今の自分を、本来の自分の力を、自分の可能性といったことを・・・
むしろ、自分を疑い、自分から逃げ、どこか諦めている自分がいる。
歳を重ねるにつれ、臆病になっている自分がいる。
こんな調子で本当に成長しているのか。
時々、考えてしまう。
そもそも、信じる心というのは、生きる上でものすごく重要なこと。
なのに、今まで信じる心を意識して育んできていない。
どちらかというと、疑う心を育んでいたようにさえ思える。
自分を深く傷つけないために・・・
いわば、自分を守る手段の一つとして・・・
信じる心はものすごく大切なもの。
だが、大切がゆえに、裏切られた時には、それが刃となり、自分を傷つける。
特に、歳が小さければ小さいほどに・・・
大人であれば、たとえ、裏切られたとしても、自分をコントロールすることができる。
けど、小さい時は、そのコントロールができないから、直接深い傷として残ってしまう。
ひょっとすると、小さい時に受けた傷がキッカケで、疑いの心を持つようになった人というのは、結構多いのかもしれない。
再び、自分が傷つくことから守るために・・・
自分を信じて行い、思っていたことと逆の結果が出た場合、自分自身が深く傷つく。
人を信じて裏切られた場合、自分自身が深く傷つく。
どちらも、反動の振れ幅が大きいんよね。
大きいからこそ大きなダメージを受ける。
だから、一度でも大きなダメージを受けたことがある人は、また大きなダメージを受けたくないために、信じることを止めたりする。
だって、信じさえしなければ、振れ幅が大きくなることはなく、大きなダメージを受けることはなくなるから。
いつしか、信じることで得ることよりも、信じることで負う傷のことばかりを意識するようになってしまう。
一種の防衛本能。
だが、これは、自分を良い方向へと運ぶことはない。
だって、起こるかどうかわからないことに怯え、様々なチャンスを逃して生きているんやから。
本当に、自分を疑ったまま、人を疑ったまま、この先も生きていいのであろうか。
そんな姿勢で生きて、どんなことがもたらされるのか考えたことがあるのだろうか。
仮に、考えたことがあるのであれば、もう疑うことは止めようと思うであろう。
なんせ、自分を大切にするようになるから。
疑うことで、ウソをつくことで、自分を守っていた人がいる。
けど、それは、いつまでも続けていいものではない。
なんたって、単に、目の前のことから逃げているだけだから。
疑うことも、ウソをつくこともどちらも簡単にできる。
でも、簡単にできるがゆえに、案外モロイもの。
だからこそ、自分を信じることで自分を守る術を身に着ける必要があるのであろう。
なんせ、信じる心はものすごく強いから。
確かに、信じていて、反対のことが起これば、反動は大きい。
もちろん、大きな傷も受ける。
だけど、そればかりではない。
なぜなら、自分自身に大きな成長をもたらしてくれているから。
大きなダメージに隠れて分かりにくいが、確かに成長をしていることは事実。
だから、信じることに怯える必要はない、信じることから逃げる必要はない。
だって、自分のためになっているんやから。
信じることを傷つくものととらえるから、信じることができなくなる。
でも、信じることを傷つくこともあるが成長できるものととらえれば、信じることができるようになる。
案外、そんなもの。
自分の都合のいいように、自分に合ったように言葉の定義を書き換える。
ものすごく大切なことなのかもしれない。
なんたって、変に思い込んでいることって結構多いから。
自分を信じ、人を信じる。
ものすごく大切なこと。
だからこそ、信じる姿勢や意識を持って、日々を生きることが大切なのであろう。
より良く、楽しい人生を歩むためにも・・・
サコヤンの独り言
「信じる心は強い」