失敗はしたくない。
多くの人が望んでいることじゃろう。
好き好んで、失敗をする人というのは、ほとんどいない。
何かしら意図がなければ。
でも・・・
失敗はしたくない。
と思う習慣を身に着けていることによって、自分自身を縛り付けることになっているとは・・・
気づくまで、思いもしなかった。
いつからじゃろう。
失敗はしたくない。
と抱くようになったのは・・・
小さい時には、そうではなかったのに。
小さい時には、結果なんて気にすることなく、失敗をノビノビできていた。
なのに・・・
今では、一つの失敗で人生が終わるかのように捉えている節がある。
実際には、そんな失敗なんて、ほとんどないのに。
なぜ、そう思うようになっていたんやろう。
うーんと・・・
おそらく、学生生活を過ごしている過程で身に着けた術であろう。
低学年の時には、結果なんて気にせず、何でもできた。
けど・・・
学年が上がるごとに、失敗は、皆から笑われ、恥ずかしい想いをする。
もしくは、周りの人が笑われているのを見て、そう感じてしまう。
んで、失敗したらどうしよう、笑われたらどうしよう。
といった想いが、行動に歯止めをかける。
いつしか、自ら行動自体を行わなくなることも・・・
なんせ、人前で、失敗したくないから、恥ずかしい想いをしたくないから。
自分自身は、もっとノビノビと失敗したい。
でも・・・
周りの環境は、失敗を許さない風潮が強い。
何をするにしても結果を求められ、一度結果を出せば、それ以上を求められる。
また、結果が出なければ、自分を責め、結果が出れば、もっともっとと自分を駆り立てる。
世の中の多くが、結果ありきになってしまっている。
まぁ、資本主義じゃから、いささか仕方がないのかもしれない。
ただ、非常に窮屈に感じてしまう。
自分を見失うほどに・・・
そりゃそうと、「失敗はしたくない」と強く思っていた自分がいる。
なのに、ここでいう失敗とは、何を指すのか一度も考えたことがなかった。
実態が分からないものを、ただただ恐れていた自分。
まるで、おばけを怖れているような感じ。
なんか、滑稽な自分が面白い。
んで、失敗というけど、よくよく考えてみると、失敗の定義なんて人それぞれなんよなぁ・・・
小さなミスを失敗という人もいれば、どんなことが起きても失敗と感じない人だっている。
要は、失敗って、一つの概念なんよね、一つの大きなくくりなんよね。
じゃから、自分にとって失敗とは何なのか、何が自分に大きなダメージを与えるのか、考えることってすっごく大切なことなんじゃろう。
だって、「なぜ、自分は失敗したくないのか」という問いを自分にしてみたら、しょうもない答えばかりが出てきたから。
「失敗」という漠然とした言葉に惑わされ、中身を見落としていた。
漠然としているものって、イメージによって、想いによって、いくらでも拡大するから要注意じゃね。
ひょっとすると、人は、「失敗をしたくない」のではなく、失敗した時の先にあるモノを嫌がっているのかもしれない。
ただ、失敗の先にあるモノを含めて、「失敗したくない」という言葉を使っちゃうから、かえって混乱しているのではないか。
なんだか、そんな気がする。
んで、誰がなんと言おうと、人は何度でも失敗してもエェ。
どの失敗も、自分にとっては必要な経験じゃから。
なんせ、誰しもが完璧な存在ではないしね。
経験を積み重ねることで、少しずつ、大人になる。
人は、本来、そういう生き物。
なのに、不完全な生き物に完璧を求めるから、かえって、おかしくなる。
不完全は不完全のままでエェ。
なんたって、それが、その人の個性であり、魅力になるんやから・・・
サコヤンの独り言
「失敗を嫌がるその先には、どんな理由がありやすか」