より素敵なパートナー&家族関係へのナビゲーター✨カウンセラーのりのり☆の波乱万丈の半生 -2ページ目

より素敵なパートナー&家族関係へのナビゲーター✨カウンセラーのりのり☆の波乱万丈の半生

パートナーを見つける前にやる事は、まずは自分を好きになること&愛すること。夫婦関係・家族関係を見つめ、日々の「今」の中から幸せを再発見し、より幸せを実感しながら生活できるようサポートいたします。

☆第一子、県外へ進学~12歳の我が子と離れ離れの暮らしえーん

そんな中、小学校卒業を控えた第一子が、部活動のない地元の中学校ではなく、部活動のある中学校へ行きたいと言い出し、

友人が通っている県外の全寮制中学へ進学した。

県外、しかも、250キロも離れた、海の向こう。

 

4月に寮暮らしが始まり、1か月半後に、初めての帰宅。

食事のあと、率先して食卓を片付ける姿や、私に対する言葉遣いが、どことなくよそよそしく、

時に間違って私に敬語を使ってくるところが、泣けてしまう。

 

12歳という、まだまだ幼い我が子と離れて暮らすことが、どれほど寂しいことか。

わたしは初めの2年間ほど、ほとんど鬱のような状態になり、二度と同じ寂しさを味わいたくないと痛感していた。

☆大阪から信州へ移住 

大阪に転勤、というか、定年した後に関係会社に再就職した父

慣れない土地に住むのも、60歳過ぎたら、いろいろと厳しいこともあるようだ。

それでも私が同居した2年間で両親の体調もだいぶん落ち着き、

私が同居する必要がなくなった。

 

信州は、ばあちゃんの出身地で親戚もいるし、

血はつながっていないが、年に何度も行き来する仲間、ファミリーがいる。

仕事も移住先もその仲間が見つけてくれた。

私は何の苦労もせず、すんなり信州の住人になった。

一軒家に、広い離れ(別棟)がついている。

ブドウ畑に囲まれた、静かな山のふもと。

遠くに見える夕暮れ時の穂高連山は、毎夕、感動の涙もの。

この景色をこれから先、何十年も眺めながら、私はここで骨をうずめるのだろう。

多分これ、人生最高の選択なんだろうな。

 

当時赤目塾2年目だった私は、近くに田んぼも畑も借りて、バリバリ野菜や稲を作った。

仕事も家も田畑も、すべて用意してくれたのは、

そこに根付いて住んでいる、家族のような仲間だった。

 

この上ない幸せに、仲間と神様感への感謝以外、なかった。

 

 

☆『日本昔ばなし』の世界

 

信州での、これ以上ない幸せな暮らし。

満足な暮らしの中で、ふと内観した。

これから先の人生で、あとやりたいことは?やり残したことは、、、?

 

それは、「子供を産み育てる」こと。

 

できたら、「半農半X」「古民家暮らし」「山暮らし」の環境で、家庭生活を楽しみたい。

『日本昔ばなし』に出てくるような、「古民家」での「山暮らし」。「半農半X」ができる環境。

そんな理想にぴったりの環境を、ある地方の友人が紹介してくれた。

 

そして、同じ夢を持つというその友人と、結婚する事を、あっさり決めた。

こうして私は、結婚のため、愛する信州を離れ、さらに地方へ移住することになった。

 

その場所は、亜熱帯のような気候で、赤目(奈良県)や信州とは比べ物にならないくらい、

雑草の生えるペース、虫の量が半端じゃない。

 

それでも何とかかんとか、川口さんから学んだ自然農法を続け、

毎朝、畑や田んぼに立つのが、一日の始まりの楽しみだった。

 

 

☆田舎から東京へ

 

田舎の高校3年の時、親の転勤で東京へ戻り(赤ちゃんの時、東京から田舎へ転勤したから)、

私は東京で女子大生になる。

大学時代は、ひたすらアルバイトにはげみ、たまったお金で、とにかく北海道を旅行していた。

最初の4年間は、JRで。そのあとバイクに乗り換えて。

そのあと自転車に乗り換えて。(詳しくは、別投稿で💛)

 

都会で疲れた心身を、北海道でリセットしていたのかもしれない。

この時宿泊で利用していた「とほ宿」との出会いが、私の夢の一つ「民宿のオーナー」のきっかけになる。

 

☆都会暮らしの中の緑

 

一人暮らしのアパートでは、プランターで野菜を育てた。ほんの少しだが。

アパートの管理人さんにお願いして、建物と道の間の狭い敷地に、畑を作らせてもらった。

 

どんな都会でも、春にはオオイヌノフグリ、梅雨にはドクダミも、ちゃんと顔を出してくれる。

 

通勤手段は雨の日以外、自転車。

朝日でキラキラ緑が光る広い公園を通過するのが日課。

電車で通うときは、定点ポイントで個体種(小金井を過ぎたら右側に見えてくる銀杏の樹、やしの木とか)

の四季の移り変わりを楽しむこともできた。

 

休日は、お結びを持って、多摩川の河川敷や高尾山を散策。

今でいう、山ガール?川ガール?

 

だって、職場での上司からの呼び名は、「おじょう(お縄 = 縄文人から由来)」だったし爆  笑

 

 

☆都会から農業塾通い

 

親が転勤で、こんどは大阪へ。しばらくして私も、体が弱った親との同居を決め、

東京の仕事を退職し、アパートを引き払った。

 

大阪生活では、奈良県にある、自然農の第一人者であられる川口由一氏の主幸する「赤目自然農塾」へ通う。

京都の山奥のにあるお釈迦様の瞑想センター「ヴィパッサナー瞑想センター」にも通い、

いつの間にかスタッフになっていた。

 

途中、大阪から信州に単身引っ越してからも、信州から赤目塾へ通った。

信州からの約300キロの道のりを、畑用の長靴を履いて、

名古屋、京都をまたいで移動する30歳の女性なんて、私だからできたのかも。

 

 

☆ 母との想い出

 

お正月門松を過ぎると、母が私を誘う。「春の七草、探しに行こう!」

 

寒さが緩む早春になると、母が私を誘う。「そろそろ、フキノトウが出るころだね。探しにいこっか。」

 

やっと春が来たね照れチューリップ赤 という頃になると、「あ~、もうヨモギが出てるかな~」

 

ヨモギが終わるころハチには、「あの土手、そろそろ土筆ツクシでいっぱいじゃないかしら・・・」

 

母は、野原の植物のことで、頭がいっぱいてんとうむし

 

母の大好きな 「母子草」 や 「オオイヌノフグリ」 に出会うと、テンションマックスになる母を、

「ふ~ん。そこまで・・・・」と、冷めた目で見てた私。

今の私なら、母の気持ちがわかるな✿てか、今の私と一緒だ爆  笑

 

そんな母と、探検に出かける日々が、私は大好きだった。

☆遊び場は、山

ネザーランド・ドワーフウサギ探しネザーランド・ドワーフ

同級生は、近所にたくさんいた。

遊びに行くけど、「リボン」か「なかよし」を読みふける時間。

「ねえ、外に行かない?」と誘うけど、みんなインドア。

仕方なく、一人で山へ出かける。

ある時、父が「今日ね、山でウサギに会ったよ!」と聞いた日からは、

毎日ウサギの糞探し。ウサギに会いたい一心で、山へ出かけた。

 

スノボ滑り台とロッククライミング

山の一部に造成工事が中断している崖があり、

そこは、子供たちの滑り台&ロッククライミング。

私は長期う休みの日々は、そこへ毎日通った。

おかげで、小学校時代の体力測定での斜め懸垂は、ダントツ1番。

 

今思えば、奇跡的な遊具だった。

 

ハイビスカスお花摘みハイビスカス

山には、そんなに花の種類がなかった。春にツツジ、秋にヤブツバキに出会うくらい。

そんな希少なお花を摘んできては、水の中でブチュブチュにつぶして、色水を作り、

その美しさを眺めて遊んでいた。

 

☆ 初めての妊娠

夫との山暮らしをはじめると、すぐに妊娠が判明した。

私が憧れている自宅出産の希望は、夫に即賛同してもらえた。

こういうところは、夫婦の価値観が一致していてうれしい。

今思えばとてもおこがましいのかも知れないが、以下の理由から私は、自宅で安産する自信があった。

 

●妊娠3年前から、玄米採食になっている

●大自然に感謝しながら超エコな暮らしを送っている

●半農半X的な暮らしをしているから、きっと昔ながらのお産ができる

●7年間、ヨガを毎朝続けている

●毎日、大宇宙の神様にお祈りしている

 

以上のことから、大自然の神様が、私たちを守ってくれないわけがない、という、とても単純な理由。

若かったから、無知だったから、できたことかもしれない。

 

妊娠が判明した時に一度だけ産婦人科へ行った。

よくドラマでみるやつね、「おめでとうございます。」と淡々とした口調でお医者さまに言ってもらう場面、それに憧れて。

その場面は想像どおりだったが、実際の診察におののき違和感を感じた私は、

以来、産婦人科に行くことをやめてしまった。

 

私は、私と夫と赤ちゃんの運命を、神様のみに預けた。

 

ここでも、神様を信じ、真剣な祈りが板についた体験となった。

 

☆ 妊娠中にやったこと

〇家で、夫と二人で赤ちゃんを迎えるためにしたことは、まずは古民家の修繕。

当時我が家の床下には、ハクビシンが二匹住み着いていた。

すまんけど、赤ちゃんが無事に産まれるまでは、住み着かないようにしてもらっていい?

床下の隙間や、隙間風防止のための壁の隙間を、ところどころを赤土で修繕した。

今にも床が抜けそうな板の間も、夫が張り替えてくれた。

 

〇初めての自宅出産。インターネットが普及していなかった18年前ほど前だ。

出産・育児に関係するありとあらゆる本を二人で読み漁り、

出産の段取り、仮死状態で産まれてしまった場合の対処等、これでもか!というほど学んだ。

 

〇あと、夫には、車の運転免許を取るよう頼んだ。

30歳の所帯持ちになり、妻が妊娠してもなお、車の運転免許を取りたがらない夫は、

「今日は雨だから」「今日は風が吹くから」と言っては、教習所に行くことを遅らせ、免許取得に半年を要した。

もう産まれるっちゅーーねん!!

 

☆助産師さんとの出会い

どれだけ素人の二人が学んでも、やはり、プロの助産師さんには叶わないはず。

できたら、自分たちのバースプランを叶えてくれる助産師さんが居てくれたら心強い。

おなかの赤ちゃんは7か月に入っていた。

当時の検索手段は電話帳(タウンページ)のみ。

タウンページで、「助産院・助産師」の項目から3名の連絡先を見つけ、

県内に住んでおられる数名の助産師さんに面談し、

そして、私たちの希望(バースプラン)をすべて叶えてくれる助産師さんに出会え、お世話になる事にした。

80歳を超えるご高齢のベテラン助産師さんで、最近ガラケーを娘さんから持たされた、といって、

着信に出る操作もわからないまま、ピンクに光るガラケーを持っていた。

 

☆出産当日~夫と二人だけの出産~

出産予定日より数日前の明け方。生理痛のような痛みがあり、目覚める。

シクシクと軽い痛みが続く。

夫を起こし、「もしかしたら、これって、お印ってやつかな~?」と伝えた。

 

「どうしたらいい?何をしたい?」と夫。

私は、何を思ったのか「モーニングを食べに行きたい。」と言っていた。

喫茶店が開く時間を待ち、夫と片道20分かかるけど、一番近くの喫茶店へ。

免許取りたての夫の運転は、当時すでにドライバー歴12年だった私からすると、安全運転過ぎて、進みが遅い~~!!

帰りがけ、「アロマを買いたい。赤ちゃんが産まれた後、部屋で使いたい。」という私に、

夫は喫茶店の近くの雑貨屋へ連れて行ってくれた。

 

その店に立ち寄った頃には、時々店内にしゃがみ込むほど、定期的な腹痛に見舞われた。

だからさ、それって、陣痛だってばよ!!
 

ラベンダーのアロマを選んだあと、車に乗り、自宅へ戻る。

帰路は車の振動がきつくて、カーブに差し掛かるたびに「ちょっと、停めて~」と言い、

5分おきくらいに車を停めてもらいながらも、やっと我が家へ到着。

 

出産したら、数日お風呂に入れない。

「お風呂に入りたい」という私に、夫は急いでお風呂を沸かしてくれた。

 

☆思わぬ出産法

お風呂に入って体を温めていると、陣痛も和らぎ気持ちよく、さっき買ったアロマを数滴投入したら、さらに気持ちよい。

さて、そろそろ出るか・・・。

 

ところが、ところが!おーーーっと!

 

おなかが痛くて、湯船をまたぐことができない!

 

「産まれるわ・・・」私が言った。

 

 産まれる直前に、夫へ最後にした注文は、「時計を持ってきて」「電話の子機も」「カメラも!!」の三つだった。

 

そしてそのあと、図らずしも、ラベンダーの香りのお風呂で、水中出産することになったのである。

あれだけプランを立てていたのに、プラン外、想定外だぞ~~~

でもね、これも、お腹の中の赤ちゃんが選んでくれたことだと、すんなり飲み込む。

 

産まれ出るときの神秘的な体験は、文章ではなかなか表せませんが、またの機会でご紹介できたら💛

 

お湯の中から、

 

ポわ~ン!

 

と浮かんできた生き物を、夫が取り上げてくれて、私に渡してくれた。

さっきまで二人だけだった空間が、三人の空間になった瞬間・・・・・・

 

どれほどの感動感激があったことか。

夫は涙ぐんでいるように見えた。

でも私は容赦なく、「時計見て!何時?」と注文していた。

 

あれ、泣かない。

 

「泣かないね。。。」と二人でつぶやいた途端、

「・・・おぎゃ」と一声、義理のように声を出してくれた。

「え・・・産声って、こんなもん?」

あとは、静かな顔でジーっと私たちのほうを見ている感じ。

お風呂のお湯、飲み込んでないのかなー。

息をしているから大丈夫だね。

 

・・・・・・

ほんとに、あかちゃんだ。

ほんとうに、お腹から、出てきた。

あったかい。生きていてくれている。

おちんちんだ、男の子だ。

 

「産まれてくれて、ありがとう」「ようこそ、我が家へ」

 

しばらく赤ちゃんを抱っこしたままお湯の中でゆっくりしたあと、

夫の介護で何とか湯船から這い出て、

へその緒がつながったままお布団まで移動した。

 

私たちが選んだのは、野口式の出産法だったので、

それからしばらくの間は、薄暗い部屋で過ごすことになる母子であった。

 

つづく~

 

☆就職活動

高校3年時にむりやり自分の夢をしぼり、

大学はその夢に沿った希望通りの学部に入学した。

大学4年間は、勉強以外でも目的を持って過ごし、充実していた。

 

大学4年生での就職活動については、

星の数ほどの就職先から、どう選んだらよいのか。

まず、自分が幼少期、好きだったことを、いくつか思い出してみた。

 

その一つが、家庭用品への思い入れ。

 

母のそばに居たくて、台所に立つ母の横によく立っていた私に、

母は、ちょっとした手伝いをさせた。

「これちょっと、持っててくれる?」「これちょっと、瓶に移してくれる?」「これちょっと、剝いてくれる?」

など、ちょっとしたお手伝い。

そんな時、家にある家庭用品を使いながら、私はよく、

「これ、もっとこんな形だったら使いやすいのに・・・」と子供なりにデザインや実用性を考案していた。

今でも商品化したら、ヒットするかもしれない。

 

そんなわけで、就職先を、「家庭用品メーカー」に絞った。

中でも、社員のアイデアを常に募集し、アイデアが採用されたら、金一封をいただける、という

なんとも楽しそうな社風の会社を見つけた。

その会社へは、OG訪問を含め、何度か訪れた。

 

「今は二部上場会社ですが、来年は一部上場になるんです!」

という、人事課長さんの、ホクホクとうれし気なご様子や、先の明るいお話。

OGの先輩社員さんの

「あなたが希望する商品開発課、来年も新卒さんを採用すると思いますよ!」

という朗報。

自社ビルの中で働く社員さん全体が、軽やかで、楽し気な様子。

 

「ここがいい!!」

 

そして、幸運にも、その会社に就職が決まった。

 

時は、ちょうどバブル崩壊のころ。

 

☆新卒社員研修

新卒の新人研修は、1か月行われた。

私は、「商品開発部」に配属してもらいたくて、

人事課長さんには、採用前の面接でも、入社後の研修中でも、タイミングを見ては、

その希望を熱く伝えていた。

 

そして、1か月の研修が終わり、最終日に行われた、配属先発表。

 

私の配属先は「人事部人事課」 

がーーーーーん!!目の前が真っ暗になった。

 

そりゃ研修では、人事部の先輩には一番お世話になっrいました、感謝してます。

だけどさ、ここだけの話、几帳面で真面目な人ばっかりだし・・・・えーんえーんえーん

正直、仕事の内容も、面白くなさそうじゃんよ~~~えーんえーんえーん

 

その夜の新入社員だけの打ち上げ会の席で、私は酔っ払い、

「こんな会社、すぐに辞めてやる~~!!」と叫んでいた。

「多分、今年の新入社員の中で、私が一番先に辞める運命だわ・・・ショボーンショボーン」と。

そんな私を優しい同期たちは、

「まあまあ・・・。人事部で少し頑張って、異動希望を出せばいいじゃんねドキドキ!!」となだめてくれるが、

人事部なんて、一番異動希望を出しにくい部署だってこと、わかってるくせに!!ショボーン

と、だだっ子心満載でその夜を過ごした。

 

☆GW明けの異変 ~マスコミに囲まれる~

新人研修終了後、翌日からゴールデンウィークが始まったが、

配属先が希望通りでなかった私は、GW中も、沈んでいた。

そしてGW明け、人事部としては初出社の日。

 

自社ビルにつくと、とんでもない光景が目に入った。

日テレ、テレ朝、フジテレビ、他にもどこかの報道カーが、何社来ているんだろう・・・。

うちのビルを背に、何やらマイクでしゃべっている。

うん、間違いなく、うちのビルを取り囲んでいる。

 

・・・・え、どうした???

 

呆然としていると、多分報道関係者と思われる方がマイクを持って私に近づいてきた。

(え、どうしよう♡インタビューされちゃうかも♡)とドキドキしたのもつかの間、

社員通用口から、部長さんが扉を少しだけ開け、

「こっちこっち!急いで!こっち!」と手招きしている。

 

私は、急いで通用口に走った。

 

ビル内に入ると、受付の電話がロビーに鳴り響いていた。

人事部総務部の部屋に入っても、すべての電話がガンガン鳴っている。

 

なに?なに??何があった???

 

戸惑いながら電話に出ようとすると、上司に「電話には出ないで!」ときつい口調で言われた。

 

なんやんねん?

 

☆緊急集会。ホールへ集合

8時半だったか。隣にいる総務部の先輩が社内放送した。

「社員の皆さんは、ホールへお集まりください」

 

なになに?とみんなでザワザワ言いながらホールへ行き、

初めて、事の次第の説明をやっと受けた。

 

いわゆる、倒産

 

急にメインバンクが、取引を中止したことが主な原因

 

新人研修が終わった直後、「よろしく頼みますね!!」と親しみやすく肩をたたいてくれたあの社長が、

全社員の前で、泣きながら、詫びている。

 

私の中で、何かが崩れた。

 

その日のお昼休みも、ランチのため外に出ると、まだ何社かの報道カーが残っていて、

私の同期は「俺、インタビューされたぜい!!」と喜んでいた。

確かに夕方のニュースで、奴はテレビに映っていた。

最後にピースしてるじゃん、あほたん!

 

☆希望退職

それからだった。テレビで、「またもや倒産!」というニュースが頻繁に流れだしたのは。

いわゆる、バブル崩壊期

その先陣を切ったのが、入社一か月目の、わが社だったわけだ。

 

倒産と聞くと、お先真っ暗だが、

その会社が倒産することで社会に大きく影響を及ぼす、と国が判断した場合、

「更生会社」として、会社の機能が厚生するまで面倒を見てくれる。

すぐに国の弁護団が派遣され、部長以上の社員は、退職させられる運命となってしまった。

私をかわいがってくれていた人事部の部長もだ。

新卒で採用され、初めての仕事が、そんな尊敬する先輩や上司の方々の離職票を書くことだった。

 

つらかった。

 

何よりもつらかったのは、それからわずかの間に、

同期の女子が一人を除いて全員やめてしまった事だった。

初めて部署に配属された部屋で、

倒産処理のため右往左往している上司や先輩を眺めるだけで、

新卒さんがかまってもらえる状況ではなかったのだ。

 

私が新人研修の打ち上げで酔っ払い

「こんな会社、私が一番先に辞めてやる!!!」と管を巻いた時、

優しく慰めてくれていた同期たち・・・

 

彼女たちは皆、私より先に辞めてしまい、

残ったのは、海外事業部に配属された同期の子だけだった。

 

私は、人事部に配属されてしまったおかげで、

人事部配属初日から、離職関係の仕事がバンバンありすぎて、

「辞めます」なんて言い出せないまま2年が過ぎようとしていた。

 

☆新生会社へ

倒産から2年たち、会社の運営はすっかり平常に戻りつつあり、

更生会社から新生会社へと生まれ変わる時がやってきた。

それは、がんばって会社を持ち越した社員全員にとって、

忘れられない感動の瞬間だった。

 

会社として、最後の希望退職を募ったとき、私も手を挙げた。

唯一の同期の女子、海外事業部の子も、希望退職を申し出た。

 

人事部に配属されてからこの2年間で、

私は当時の全社員の3分の1の人数分の離職票を書いたことになる。

そして私の最後の仕事は、自分の離職票を書くことだった。

 

個人的には、この怒涛の2年間、混乱期に、すぐに逃げてもよかった環境で、

役目を果たした達成感は、ものすごかった。

 

めっちゃドラマや~~ん

☆いざ出発!

在職中から、次にやることは考えていた。

 

これからの人生、生計をどうやって立てていったらよいのか。

会社という存在は、いつ何が起こるからない。今回のことで、身に染みた。

自分で何かをするのが性に合っているかもしれない。

こなちっぽけな自分にでも出来ること、というより、やりたいこと!それが

 

「パン屋」か「民宿経営」か「農業」!

けど私の根性では、専業農家は無理っぽいから、兼業農家。

 

まずは、日本のどこに拠点を置くのか?

そして3つの生業のうち、どの職業が向いているのか?

日本のどこでそれをやるか?

それを決めるための、旅だ。いわゆる就活。

会社都合の退職なので、すぐ失業保険がもらえた。

こんな就活もいいもんだ。

 

移動手段を自転車にした理由は、

今までさんざんJRやバイクの旅をしてきたが、

やはり、その土地に住んでいる方や空気などを感じるためには、

 

 自転車 自転車   自転車が一番   自転車 自転車

 

 

さて行くか自転車

 

出発の日の所持品は、まだ、地図とお金と着替えと歯ブラシだけ。


とにかく、まずは、西に向かおう。今一番行きたい沖縄を目指すのだ!!

 

 

1日目、 100キロ近く離れた、山口県の親戚の家に泊めてもらう。

2日目、 そこから更に西に進んで、関門海峡を渡る!

自転車でも海の底を横切れるなんて、感動💛

九州に入って国道1号線の車のスピードに恐怖を感じる。

博多の友人宅に泊めてもらう。

3日目 友人に、福岡観光に連れて行ってもらう。

4日目、 長崎の親戚の家に泊めてもらう。

近くの浜で採れた牡蠣をたくさんごちそうになり感激。

 

☆5日目の災難

5日目、 朝の味噌汁にも、牡蠣が入っていた。昨夜の感激とは裏腹に「ん?」と嫌な予感。

出発してすぐ腹痛。意識朦朧で記憶が薄いが、船に乗ったかして、熊本へ。

腹痛のため、自転車を解体(輪行という)して電車に乗る。

何とか、目指していた宿(阿蘇ユースホステル)にたどり着く。

すでに下痢と嘔吐が始まっていた。離れに泊めてもらう。

3泊くらいお世話になる。

 

☆復活!リスタート自転車

聞いたことある「高千穂峡」を走る。復活したとはいえ、本調子ではない。

「景色、きれい💛」とモチベーションを上げようとするが、きつい坂は、どうあってもキツイ。

全体重をかけてペダルを踏み切るものの、フラフラしながら急な坂道をゆく。

 

トラックが私を追い越した。

少し前でハザードをつけて停まった。

「乗っていきますか?」こんなこと初めて。

天の声だと直感したが理性は働いた(男の人と二人きり、だいじょうぶか?)。

が、口は「ありがとうございます!」と答えていた。

トラックの荷台は、空っぽ。

マイチャリは、広い空間で横になり、私は、高台の助手席へ。

トラックなんて、初めて乗る。視界が高く、気分がいい!

天の声のお兄さんとどれくらい楽しく話をしただろう、気が付くと宮崎県。

甘えすぎてもいけない。適当なところで下車させてもらった。

多分一日くらいかかりそうな工程を、一気に移動。

お兄さんは、ただただいい人だった。

宮崎の海岸は気持ちよく、思ったよりも短時間で、鹿児島へ。

宮崎に宿泊した記憶が飛んでいる。

 

☆沖縄はすぐそこに!~桜島~

宮崎の海岸を気持ちよく移動したあと、桜島ユースホステルに宿泊。沖縄は、目の前だ!

鹿児島港からフェリーで那覇港へ船

フェリーの中は未知の世界だったので緊張したが、

国民の成人の皆さんがふつうはお仕事されている、こんな平日に

沖縄に向かう人が、こんなに沢山いるもんなんだ、、、

船に乗り合わせた強者の旅人さんたちから、旅の情報を散々ゲットして、

にわか友達もたくさん出来て、楽しい1泊の船旅となった。