ミラノ・コルティナの冬季五輪もそろそろ終わる。
それほど興味もなかったけれど、テレビをつければニュースの時間以外はほとんど中継や録画やふりかえり番組ばかりで、そんな中、フィギュアスケートの話題はやはり心をひかれてしまう。
競技中は決勝のハイライトをみるぐらいだったけれど、最後のエキシビションはちょっとだけ早起きして後半からフィナーレをみることができた。五輪開幕してすぐの団体戦(2014年のソチ大会〜)に始まり、各カテゴリーごとの試合が順にあって閉幕直前のこのエキシビションまでフィギュアスケートは長丁場だけれど、楽しげな表情でパフォーマンスを見せるスケーターたちからは、各国代表チームとして、いつもの国際大会で競い合う仲間としてすごした大会期間の交流の充実ぶりがうかがわれた。
末っ子気質の坂本花織は3回目のオリンピックで日本チームをひっぱり、すこしずつ順位を上げながらメダリストとして有終の美を飾った。規格外のアリサ・リウに金をさらわれたけれど、メダルの色なんて関係ないと自信を持ってほしい。
パンダの着ぐるみを着て三回転ジャンプをするシャイドロフは自分が金メダリストになるなんてきっと想像してなかったのだろうと思った。
三浦璃来・木原龍一ペアは最後までパワフルだったし、アリサ・リウは変わらず自然体だったし、マリニンも今日はリラックスしていい表情をみられた、政治的な理由(ロシアが参加できない)を別としても、フィギュアスケートの世界もずいぶん変わったなと感じた。
フィナーレでは、今は鍵山選手らのコーチを務めるイタリアのミューズ、カロリナ・コストナーに導かれて登場した全スケーターが、メダリストも入賞者もいりみだれ終わりを惜しむように技を繰り出し集合写真を撮り、観客の喝采に応えリンクを何周もして、最後はリンクの氷に触れて感謝を伝えながら去っていく。4年後にまた会える顔はどれぐらいいるだろうか。
今回はドラマティックな物語の多い大会だった。いや、今回も、か。
期待されていた絶対王者が思いもかけないスランプに陥るとか、大きな不調でいったんは競技の世界から離れていた選手が戻ってきて会心の活躍をした、というのはこれまでの大会でも繰り返されてきた物語だと思う。
しばらく観戦熱が冷めていて、ひさしぶりにちゃんとみた今大会でまず目立ったのは、鍵山優真、マリニン、シャイドロフら二世スケーターの活躍だった(小塚崇彦も三代目のサラブレッドだったが、他にも二世三世で大成した選手はいただろうか?)。幼いうちから、オリンピアンだった大人が注意深くスケートの世界に導き入れ、自分の数多の経験をふまえて恵まれた環境で練習を組み心身をつくりあげてきた子どもたち。ゼロからフィギュアスケートの世界に入った多くの他の選手に比べると、もちろんプレッシャーも半端ないのだろうけれど、それぞれスマートにまっすぐにステップアップしているように見えた。
アリサ・リウも二世ではないが、早い時期から惜しみない英才教育をうけてきたという。ミシェル・クワンに憧れた父が孟母三遷で背中を押してきたリウのかつての姿は清く正しく可憐な理想のアジア系スケーターを体現した感じだったが4年前の五輪でいったん競技から引退した。スケートからも離れさまざまな世界を体験してから今回競技の世界に舞い戻ってきたリウは、もう大人の指導におとなしく従うお人形ではなく、自分で表現したいものを持ち、それを最大限表現するめに自分で練習メニューを組み、曲もファッションも食べ物も自分で選び、肩の力が抜けておどろくほど安定した自信に満ちた選手に化けていた。
こうした選手たちを見て思うのは、大事なのは自分のうちからあふれでてくるエネルギーやパッション、でもそれを形にするためのベースとして幼いころからの無理なく最善の練習で身についた技術というのが不可欠だということだった。野村萬斎さん風に言えば、みな「フィギュアスケートサイボーグ」といってよい体を持ち、その体を使ってなにをしたいか、というステージにいたのだと思う。
女子シングルは、もともと十代の選手が大人の体型になる過程で心身のバランスを崩して苦しむことが多い世界で、細い体で高度なジャンプやスピンで得点を稼ぐタイプの選手と、20代になってジャンプやスピン以外の要素で得点をつみあげて魅せるタイプの選手を同じ土俵で競わせる理不尽を感じていた。ジュニアとシニアの線をどこでどうひくか、という問題は相変わらず残っているが、氷上で滑るという環境ならではの表現をするための基礎をすこやかな環境でていねいに身につけたうえで、それをのびやかな自己表現に結びつけられた選手が評価されるような競技になっていってほしいな、と思った。