2024年9月16日(月・祝)13:30開演
KAAT神奈川芸術劇場ホール内特設会場
作:W.シェイクスピア
翻訳:河合祥一郎
演出:藤田俊太郎
木場勝己(リア王)、水夏希(ゴネリル)、森尾舞(リーガン)、土井ケイト(エドガー)、石母田史朗(ケント伯爵)、章平(エドマンド)、原田真絢(コーディーリア/道化)、新川將人(コーンウォール公爵)、二反田雅澄(オールバニ公爵)、塚本幸男(執事オズワルド)、伊原剛志(グロスター伯爵)
稲垣良純、入手杏奈、加茂智里、河野顕斗、宮川安利、柳本璃音、山口ルツコ、渡辺翔(コロス)
横浜に住んでもう20年以上になるが、初のKAATでの観劇。
藤田俊太郎演出✕宮川彬良音楽という「天保十二年のシェイクスピア」コンビで役者も木場勝己が主演で土井ケイト、章平らあの舞台で強い印象を残した役者たちも登場すると聞けば、興味がかきたてられる。制作発表後間もなくその「天保十二年のシェイクスピア」の暮れからの再演も決まり、これは両方見届けるほかないだろうとチケットを手に入れた。娘と日程をすり合わせたら、9月16日から10月3日までの15公演の初日になった。
シェイクスピアの四大悲劇のなかでもいちばん有名かもしれない「リア王」だが、最近は初期の「リア王の物語(クォート版)」とそれにシェイクスピア自身が細かい改訂を多数加えた「リア王の悲劇(フォーリオ版)」は別物と考えられるようになり、これまでの折衷版とはひと味もふた味も違うフォーリオ版の新訳(角川文庫で気軽に読める、注釈や解説も充実していてすごくよかった)による本邦初演というふれこみ。今回はさらに、三女コーディーリアと道化が一人二役となったり、グロスター伯爵の嫡子エドガーが女性として登場するあたりも新しいとのこと。
遠くから聞こえる赤子の泣き声でいつのまにか幕は開いた。
赤子を抱いて歩いていく女性がいて、それを目で追うリア王…劇中の「人はこの世に泣きながら生まれてきた(なぜか?)人は生まれると、この阿呆の大いなる舞台に出たと知って泣くのだ」を思い出させる場面だった。
木場勝己のリア王は、等身大という感じだった。権力を持つ王だからか、加齢によるものか、さらに男だからか、尊大な感じだが威厳はそれほどあるわけではない。時代劇のようで現代劇だなと思えて引き込まれる。
そんな王が急に言いだした王国分割&引退宣言に、へつらった返事で迎合する長女&次女と婿たちと、それにのれない正直すぎる三女やケント伯爵がいて、話がどんどん展開していく。その一方で、王の一の家臣グロスターの息子(私生児エドマンド)はその立場に鬱屈をため、一発逆転を狙ったはかりごとで王の娘たちも巻き込みながら父と嫡子にむかっていく。
子に騙された二人の親(リア王とグロスター伯爵)と親からとつぜん勘当された子ども(コーディーリアと嫡子エドガー)が二重写しになり、男女、老若、長幼、君臣、嫡子か私生児かといったさまざまな立場による理不尽が描かれていく。目をかけられていたはずなのに急に見放される、身に覚えのないことで目をえぐられるといった理不尽、野宿をきめたら嵐に見舞われ、三女の援軍は敗れ去り、真心は通じずといった苦難の連続だけれど、ああこれこそ人生かもしれないと思う。
多くの人物が志半ばで無念の死を遂げていき、生き残った人たちもよかったとはとても思えないつらい幕切れで、悲劇も喜劇も紙一重というか裏表だと実感しながら見終えた。
正直すぎるコーディーリアと道化の二役は実に腑に落ちた。劇中でいちども同時に登場せず、シェイクスピアの時代も少年が二役を演じたらしいが、道化はもしかしたらコーディーリアと通じていたという可能性もあるかなと思えた。
女性によるエドガーというのもとくに違和感なく、両目を失った父親を案じ細やかに支える姿などはよくなじんでいた。男性のエドガーによる芝居を見たことがないので、比べることもできないのが残念だけれど…
藤田俊太郎にとっては初めててがけるシェイクスピアということだったけれど、なにしろ「天保十二年のシェイクスピア」がすごかったので、「初」という気がまったくしない。そして、今思い返せば、あの劇のなかの井上ひさしによる「リア王」の使い方もなかなかうまくできてて、「リア王の悲劇」が終わった次に待っている「天保十二年のシェイクスピア」再演がますます待ち遠しくなった。
開演前には、同じ建物内のNHK横浜局で、大河ドラマの巡回展と朝ドラの体感ミュージアムもみられた。
古典好きで演劇部OGの娘は平安装束や甘味屋のセットの裏側などを興味深そうに楽しんでいた。