ゴールデンウィークであり、外出自粛の真っ只中でもあります。


昨日はイワシ?の切り身に片栗粉を付けて焼きました。




緊急事態宣言の期限が5月6日までとなっていますが7日から一斉に通常通りではないでしょう。気を緩めても許されるような解決策が6日までにとられているとは思えないです。7日にみんな一気に解放されて、お祭り騒ぎになったら元も子もありません。6日より伸びるでしょうね。

 

コロナ禍にあって、誰かを責めたり、批判するのはやめよう、という意見を目にします。

 

「寝る前に周りの人のことを思い出しながら、ありがとう、っていつも感謝しているんです」という感じで、影の部分なんてまったくないキャラクターとして活動していた女性タレントが不倫をしていたという事件が以前ありました。

 

綺麗ごとだけ言う人は、ちょっと辛いです。

 

それに、責めるのも、批判するのも言論の自由が保証されている日本にあっては、法の範囲内であれば、自由です。そのかわり、自分が責められたり、批判されるのも受け入れなければなりません。

 

責めるな、批判するな、認めよう、肯定しよう、って、言葉だけ聞くと良い感じなんですけど、すごく不自由な、気持ち悪い意見だと思うのです。

 

だって、責めたり、批判したりしたい対象に出会ったら、無視するってことでしょ。それって、健全なの? ある国でひどい人権侵害が行われていたとします。責めるな、批判するなでいけば、そういう問題には触れるなってことになりませんか。見てみぬふり。

 

それは極端だ、責めるべきところは責め、批判すべきところでは批判すればいい、と言うかもしれませんが、じゃあ、その線引きは誰がするのですか。

 

責めるな、批判するな、って言ってる人って、いろんなことを自己責任だと言って片付ける人と同じ臭いがするのです。

 

俺は何があっても絶対に人を責めないし、批判しない、というのなら納得します。

俺の身に何が起ころうとも全ては自己責任だと言い切るのなら良いと思います。

 

でも、考えてみれば、責めるな、批判するな、という人は、すでに責めて批判している人を責めて批判しているじゃないですか。

 

自分の身に起こったこと全てを自己責任だと引き受けられる人なんて、「全てが神の思し召し」だと言い切れる、信仰を持ってる人の中でもプロ中のプロ信者しかいないでしょう。

 

だから結局、みんな自分なりの線引きで、右に左に態度を変えているんです。

 

僕は昔からこの自分なりの線引きを押し付けてくる人が大嫌いでした。

「お前は甘えてる」とか「努力が足りない」とか言える人。そういう人って自分が全ての基準なんですよね。

 

言っていいこと、ダメなこと。やっていいこと、いけないこと。その基準を力のある人がその人なりの基準で決めはじめたときが自由の崩壊です。





 引っ越し準備をしていると、いろんな本が出てきます。