『碧巌録』より  第四則 徳山挟複子 / 徳山至潙山(その1) | 作家の日記

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【問答】
徳山至潙山。挟複子於法堂上、従東過西、従西過東、顧視云、無無、便出。徳山至門首却云、也不得草草。便具威儀、再入相見。潙山座次、徳山提起坐具云、和尚。潙山擬取払子。徳山便喝、払袖而出。德山背却法堂、著草鞋便行。潙山至晚問首座、適来新到在什麼。首座云、当時背却法堂、 著草鞋出去也。山云、此子、已後向孤峰頂上盤結草庵、呵仏罵祖去在。

(中国語の発音・読み)


徳(dé)山(shān) 至(zhì) 潙(wéi)山(shān)。挟(xié) 複(fù)子(zǐ) 於(yú)法(fǎ)堂(táng)上(shàng)、従(cóng)東(dōng) 過(guò)西(xī)、従(cóng)西(xī) 過(guò)東(dōng)、顧(gù)視(shì) 云(yún)、無(wú)無(wú)、便(biàn)出(chū)。徳(dé)山(shān) 至(zhì)門(mén) 首(shǒu)却(què) 云(yún)、也(yě) 不(bù)得(dé)草(cǎo)草(cǎo)。便(biàn) 具(jù)威(wēi)儀(yí)、再(zài)入(rù) 相(xiāng)見(jiàn)。潙(wéi)山(shān) 座(zuò) 次(cì)、徳(dé)山(shān) 提(tí)起(qǐ) 坐(zuò)具(jù) 云(yún)、和(hé)尚(shàng)。潙(wéi)山(shān) 擬(nǐ)取(qǔ) 払(fǎn)子(zǐ)。徳(dé)山(shān) 便(biàn) 喝(hē)、払(fǎn)袖(xiù) 而(ér) 出(chū)。德(dé)山(shān) 背(bèi)却(què) 法(fǎ)堂(táng)、著(zhe) 草(cǎo)鞋(xié) 便(biàn) 行(xíng)。潙(wéi)山(shān) 至(zhì)晚(wǎn) 問(wèn) 首(shǒu)座(zuò)、適(shì)来(lái) 新(xīn)到(dào) 在(zài)什(shén)麼(me)。首(shǒu)座(zuò) 云(yún)、当(dāng)時(shí) 背(bèi)却(què) 法(fǎ)堂(táng)、 著(zhe) 草(cǎo)鞋(xié) 出(chū)去(qù)也(yě)。山(shān) 云(yún)、此(cǐ)子(zǐ)、已(yǐ)後(hòu) 向(xiàng) 孤(gū)峰(fēng)頂(dǐng)上(shàng) 盤(pán)結(jié) 草(cǎo)庵(ān)、呵(hē)仏(fó) 罵(mà)祖(zǔ) 去(qù)在(zài)。

 

(語釈)
徳山(dé shān)…禅僧の名前。ここでは、悟りを求めて行脚する修行中の僧。
潙山(wéi shān)…禅僧の名前。ここでは、行脚する禅僧を受け入れる師僧。
挟(xié)…持つ
複子(fù zǐ)…持ち物を入れる道具
不得草草(bù dé cǎo cǎo)…おざなりなのは良くない。もっと丁寧にすべきだ。
次(cì)…~する時
擬(nǐ)…まさに~しようとする
払袖(fǎn xiù)…ひらりと袖を払って
背却(bèi què)…~を背にして
首座(shǒu zuò)…禅寺での役僧
適来(shì lái)…先ほどの
新到(xīn dào)…新参僧
在什麼(zài shén me)…どこに行った
当時(dāng shí)…あの時
已後(yǐ hòu)…今後
盤結草庵(pán jié cǎo ān)…草庵を結んで、草庵を建てて
呵仏(hē fó)…仏を罵る
罵祖(mà zǔ)…仏陀の後継者たちである伝燈者たちを罵る
去在(qù zài)…~していることだろう。

 

(訳)
徳山が潙山のところにやってきた。行脚中の身なりのまま法堂へずかずかと上がり、行ったり来たりして、じろっと見て言う。「何もなし、と」。そのまま法堂を出て、山門のところに来て立ち去ろうとしたところで、こうべを振り返り「無礼もいかがなものか」と言って、服装を整え、再び寺にはいり、潙山と対面した。潙山がやってきて座ろうとした折、徳山は尻に敷いていた座具を取り上げ「和尚」と呼び放った。潙山が、払子を握ろうとすると、徳山は「喝(かつ)」と叫んで部屋を出て行ってしまった。徳山はそのまま法堂を背にわらじを付けると、行ってしまった。その晩潙山が首座に尋ねた。「あの勢いのいい新米はどこにいる」首座は言う、「先ほど法堂に背を向けわらじを履いたら出て行ってしまいました」。潙山が言う。「あいつは今後、誰も登ったことのない孤峰の上で庵を結んで、仏をののしり祖仏たちをののしりしていることだろう」

 

(解説)
禅では、形にとらわれない、執着しない、拘泥しないということが求められる。そのためには、時にこの徳山のような激しい行動が必要だ。心は行動に現れる。行動は心を形作る。形に捉われない心は、時にこんな奇矯とも取れる行動となって現れるし、奇矯な行動はとらわれのない心の表れでもある。ブッダは、私たちのために生死を乗り越え苦しみのない平穏な道に至る教えを説いてくれた。そして、その教えを脈々伝えてきた先師たちもいる。だが、その教えにすらとらわれない。執着しない。拘泥しない。だから、仏や師も罵る必要があるのだ。