初めての長岡花火は
要素が多すぎでワケわからないblogです
特別に気立てのよい男前ドライバーと171cm美女のナビ🫶
「長岡花火」当日の朝。
レンタカーを借りてウチまで迎えに来てくれたのは、
恵比寿に住む起業家で171cmの美女
(モデルのような立ち姿で颯爽とした雰囲気)
と
カッコいい彼 (気が優しくて力持ち・・彼女が惚れる気持ちはわかる)
2人とは少し前に打ち合わせがてら一緒に食事をしていて、
軽~く気心知れています。(笑)
大きな車を借りてくれたおかげで、
わたしと夫
友だち2人は
2列どっかりとポジションを取って出発。
今年の夏はオマーン行を諦めて、
この体力が要りそうな「長岡花火」に集中したんでした。
(その前には
松山のビーチでコゲてますけどね…)
「長岡花火は2時間」驚きのスケール
東京を出て、高速道路2箇所で事故渋滞を経て、
長岡より手前の駅近くに車を停めさせてもらいます。
長岡駅近くにある友だちのお店に着くと
「遠かったやろ?
お腹すいてへんか?
休憩してから会場に行きな?」と
美味しいお好み焼きや
焼きそば
枝豆などで
腹ごしらえと
休憩をしっかりさせてもらった。
「なんせココから1時間歩かんといかんやから!」
と言われたように
テクテクと1時間歩いて
会場に着いたら
関西から前泊して一緒にやってきた花火マニアの友だちが
「ココの花火ってどのくらいあるん? 30分くらい?」と聞く。
「???!
長岡花火は2時間よ!」とアプリを見せると、
「えええ?
すごいな、
はるばる来た甲斐あるやん!」と目を丸くした。
1分でわかる「長岡花火」の背景
長岡花火は、スケールも美しさも想像をはるかに超えてくる。
長岡の友だちは
「みんなフェニックス・フェニックスって言うけど、
フェニックスだけじゃないよ。
長岡花火は、空襲の鎮魂と、
中越地震の復興という2つの意味があるんよ。」
1945年8月1日夜、B29爆撃機125機による空襲があり、
約1時間で市街地の大半が焼け、1,500人近くが亡くなり、
戦後1年目の1946年に「長岡復興祭」として花火が復活し、
以来「鎮魂」と「復興」が大会のテーマになっています。
フェニックスが心を揺さぶる瞬間
どれもゴツイと聞いていましたが
フェニックスが始まった瞬間、息をのんだ。
曲は平原綾香さんの「Jupiter」。
どーん、どーんと肚に響く音。
空一面の光が胸の奥まで差し込んでくる。
怖いほどの迫力に包まれ、涙が溢れた。
――ああ、わたしはこんなところに座らせてもらって、
すごいものを見せてもらって、
ご褒美はもう先にもらってるなぁ…。
この瞬間、心のどこかでくすぶっていた気持ちがふっと消えた。
まさに、願望実現の“予想のはるか向こう”に連れ出してもらった夜だった。
下見で見えた“ありがたい”支え
長岡へは1か月ほど前に夫と下見のために来ていた。
渋滞を避けられる秘密の駐車場を貸してくれた地元の方、
夜中のチェックインに快く受け入れてくれた山里のお宿、
大混雑を見事にさばく運営スタッフ。
こういう「ありがたい」に守られて、あの花火は運営出来ているね。
土地を支える企業の力
花火を支える協賛企業にも目が いきました。
わたしは「協賛金ハンター」のあだ名ですが、花火の協賛金はすごいでしょうね。
老舗や世界に誇る企業…。
空襲で壊滅した後も、不死鳥(フェニックス)のように蘇った新潟の底力を感じましたわ。
(まるで宝石のような企業…後でじっくり調べよう。)
YONEXも協賛されていて、
こちらの企業と聞きました。
帰り道に見たみんなの眼差し
帰り道、ものすごい人波の中、年配女性のおひとりさまを何人も見かけた。
杖をつき、懸命に歩く姿。
わたしも1人になっても長岡に祈りの気持ちで来たいなぁ・・
みんなの気持ちが一つになった「長岡花火」。
来年も、あの光を見上げたい――。