秀一が凛子と会えることになったのは、柚月が死んで1週間ほど経った頃だ。
秀一の体調も戻り、凛子も無事に退院した時だ。
絵里香は言った。
「全部、思い出したんでしょ?それでも凛子に会いたいと思うの?」
「うん」
「なんのために」
「もう一度、僕を愛してもらうために」
絵里香は呆れたような顔をして笑ったが、どこかホッとした顔をしていた。
「恵介、服がない。貸して」
「買いに行けよ」
「だってパソコンもなにもかも全部焼けちゃってお金ないんだもん」
「仕方ないなぁ...やるよ、じゃあ」
恵介は面倒くさそうに立ち上がってクローゼットを漁り、パーカーやトレーナー、デニムなどをいくつか秀一に渡した。
「こいつらもう飽きたし」
「ありがとう。お金出来たら返すから」
「いいよ」
「ごめんな、恵介」
「なにが」
「...俺さ...ちゃんと自分のこと友達だと思ってくれてる人いないんだと思ってた。なのに、いろいろありがとう」
「俺こそごめん。...もうちょっと初めからお前のこと心配して探してやれば良かった。どうせそのうち帰ってくるだろうって適当なこと思ってて悪かった」
恵介にもらった服を着て、凛子との待ち合わせ場所に向かう。
ふたりで暮らしていた家の近くだ。
いつも、仕事で朝帰りする秀一と、仕事にこれから出ていく凛子の時間が合った時に、待ち合わせて朝ごはんを食べていた小さな喫茶店だ。
建物は古く、老夫婦が営んでいる店だが、席がゆったりと配置されていてソファも座り心地が良く、周りを気にせずゆっくりと過ごせると凛子が気に入っていたのだ。
その途中、秀一は柚月と出会った公園に立ち寄ることにした。
はっきりとした場所は覚えてはいないが、公園のベンチに寝転んでその景色を見ながら、それを見下ろすように声をかけてくれた柚月の顔を思い出す。
最後には、柚月の顔はあれのせいで見ることが出来なかった。
柚月は、どんな顔をしていたのだろう。
怒りなのか、憎しみなのか、それとも最後まで愛おしく思ってくれていたのか。
「...やば...」
目尻からひとすじ涙がこぼれるのを、秀一は慌てて身体を起こして拭った。
助けてあげられなかったのかと、悔やむ。
彼の病んだ心を治してやる方法はなかったのかと。
きっと、これからもこうやって悔やみ続けるのだろう。
パーカーのポケットに入れたタバコを一本取り出して口に咥えた。
タバコを吸うのは、深呼吸のようなものだ。
タバコを吸い終えて、約束の時間の少し前に秀一は喫茶店に向かう。
「いらっしゃい」
カウンターの店主に会釈して、キョロキョロと辺りを見渡す。
入口から一番遠い、角の席。
そこが凛子のお気に入りだった。
というより、いつもテーブルに突っ伏して秀一が寝てしまうので、窓際はカッコ悪いと凛子は言っていた。
それでも
コーヒーを飲みながら、そんな秀一を見る凛子の顔が優しかったのも、今ははっきりと思い出す。
「久しぶりだね、どうしてたの」
店主がテーブルに水をふたつ置いて言った。
「ちょっと旅に」
秀一が笑って答えると「悪さでもして捕まったんじゃなくて良かったよ」と店主も冗談交じりに笑った。
「いつものモーニングでいいかい。ふたつ?」
「お願いします」
しばらくして、店主は先に秀一の分のコーヒーをひとつ、砂糖を3本と一緒に置いて行った。
カラン...
古びた鈴の音が店内に響いて、ちょうど良いタイミングでモーニングのプレートがふたつ、テーブルに届けられた。秀一はその鈴の音に振り向くことも無く、コーヒーに砂糖を溶かす。
「また。勝手に頼まないでよ。違う気分かも知れないじゃない」
頭の上から声が聞こえたかと思うと、目の前に見た事のあるワンピース姿の凛子が座った。
「いいじゃん、どうせいつも結局サラダセットでしょ?」
凛子はふふっと鼻で笑って、テーブルに届いたコーヒーに口をつけた。
「...秀ちゃん...ごめんね」
秀一は顔をあげて、ようやく凛子の顔をまともに見た。
秀一の記憶の中にある凛子と、なんら変わりはない。強いて言うなら、少し痩せたくらいだ。
全部、思い出した。
はずだった。
けれど、どうしても思い出せないことがある。
どうしても、自分を殺そうとしたその時の凛子の顔が思い出せないのだ。
恐ろしい顔をして睨んでいたのか、それとも泣いていたのか、今この目の前にいる凛子を見ても想像も出来ないでいる。
けれど、それでいいと秀一は思っていた。
そんなもの、思い出したところで何も変わらない。
「俺ね、本当は嬉しかったんだよ」
「...嬉しかった?」
「俺の子どもが出来たって聞いて...自分にも一途に守るべきものを見つけられて嬉しかった。でも、それをどう伝えていいかわからなかった。あの時ちゃんと、そう言って凛子のことを抱きしめれば良かった。ごめんね...なのに、俺は全部忘れちゃって...辛いこと全部凛子に背負わせて」
テーブルに置いた凛子の握りしめた手が小さく震えた。
そして、その手の甲にポツンと涙が落ちる。
「...一緒だよ...私だって寝てたんだもん...」
秀一はその凛子の言葉に笑いながらテーブルに身を乗り出し、手で凛子の頬を拭った。
「もし、俺のこと許してくれるなら凛子にお願いがあるんだけど」
「...なに?」
「俺のこと...また愛してよ。誰が入る余地もないくらい、凛子の愛情で満たして欲しい。もう絶対よそ見しないから」
「絶対?」
「たぶん」
「...もう...たぶんって何よ」
「ごめん、大丈夫。絶対」
「...私、殺そうとしたんだよ?...しかも逃げたんだよ?秀ちゃんのこと助けないで。しかも...そのせいで...私と秀ちゃんの...」
「追い詰めたのは俺だもん。俺が悪いんだよ。だから、俺に償わせてよ。凛子にも...死なせてしまった子にも一生かけて。ちゃんと生まれ変わるから」
泣きじゃくる凛子に「とりあえずごはん食べようよ」と秀一は慰めながら冷め始めたコーヒーを飲み干した。
本当は、凛子に会うことに、自分の気持ちをきちんと伝えることに緊張しすぎて、喉がずっとカラカラだった。
店主にコーヒーのおかわりを注文すると、店主はまた砂糖を3つ置いた。
「甘いのあんまり良くないよ」
まだ真っ赤な目をしている凛子がそう言った。
「でも、この癖がなかったらきっと凛子に再会できなかったと思うんだよね」
「...どういうこと?」
「食べ終わったら話すよ。たくさんね」
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柚月と暮らしていたマンションは、後に取り壊された。
築年数も古く、火事があったせいで建物も傷み、事故物件となったために住む人間もいなくなったそうだ。
なにせ、火事でひとが死んだだけではなく、身元不明の白骨死体までが見つかったのだ。
あの白骨死体は結局、白骨化した上に焼け焦げており、身元を特定することは出来なかったそうだ。けれど、柚月の死体が発見された時にそれはまるで柚月を逃がすまいとするように上から覆いかぶさっていたと聞いた。
建物がなくなってしまった今では、もうきっと本物の理仁にも二度と会うこともないだろう。
ただ、彼が幸せになってくれるようにと秀一は願うばかりだ。
秀一は、ようやく恵介との同居を解消して、凛子と一緒に新たに部屋を借りて住むことになった。
恵介も、ひとりで住む部屋を見つけられたようだ。
「俺にも一本くれよ」
恵介との引越し作業の手を止めて、恵介の部屋のベランダでタバコを吸う秀一に恵介が声をかけた。
「いいよ、ちょうど最後」
箱の中の最後の一本差し出し、秀一はそのタバコの箱を握りつぶした。
「ありがとう。あとで買ってやるよ。新しいの」
「いいよ。これで吸いおさめ」
「え、やめるの?」
「うん。新しい部屋では禁止だって」
「素直に従うんだな」
「当たり前」
白い煙を吐き出しながら、ふと秀一は思う。
またいつか、誰かの背中にあれが見える時が来るのだろうか。
あれが柚月が殺した人間の怨念の姿だったとしたら
きっと、秀一に想いを残して死んだであろう柚月のその怨念はどこにあるのだろうかと。
そう。
ただ、秀一にはもう見えないだけで
誰かの目には見えているのかもしれない
秀一の背中にいるそれが。
そこに巣喰うもの おわり