黒いモヤは、風に吹かれるようにユラユラと柚月の顔を見せては隠す。


逃げろと言ったのに。


そう言って笑っているようにも見えた。


「殺してどうするの」


そう聞くと、柚月はその質問を待っていたように、嬉しそうに答えた。


「ちゃんと庭に埋めてあげる。これまでに埋めたもの全部出して綺麗にしたからね。だって理仁は潔癖症だから嫌がると思って」


なにをされたのかわからない。


頭でも殴られたのか


薬でも飲まされたのか


頭が痛くぼんやりとして起き上がろうとしても力が入らない。


そう言えば


あの日もそうだった。


気がついたら階段の踊り場で倒れていて、何があったのかも、何故ここにいるのかもわからずにフラフラと彷徨って、そういえば自分がどこの誰かもわからなくなっていて、たどり着いた公園のベンチで力尽きているところで、秀一は柚月と出会った。


救いの神だった。


どうせ自分が誰かもわからないのだから、他人の名前で呼ばれても別にかまわなかった。


男と付き合う趣味があったのかどうかも知らないけれど、愛してくれたから愛した。


心の底から愛してくれた人には、何故か殺されてしまう運命なのかと朦朧としながら、思わず笑った。


だったら


もう死んでもいいか


大きな愛を受けて死ぬのも悪くはないか


ただ、ひと目凛子に会いたかった。


愛していると言いたかった。


自分がちゃんとそれを伝えなかったせいで、凛子に大きな罪を背負わせてしまったことを謝りたかった。


みんなきっと、また逃げたと思うだろう。


まぁ、それでいいじゃないか。


みんなが思っていたとおりの岡崎秀一はそんなやつだ。


「殺せよ」


秀一は、そう言った。


柚月にではなく、柚月がまとっているモノに。


すると、真っ黒なそれは柚月の身体から離れて秀一の目の前を漂った。


ふたつの穴は、なんとなく哀れんだような目をしているように見えた。


そして、またそれは言った。


逃げろ。


頭の中にそう響いた瞬間だ。


それは、また柚月の身体を真っ黒に覆った。


ただ、いつもと違ったのは、それが見えなかったはずの柚月が突然弾かれるように悲鳴をあげて、それを追い払うようにもがき始めたことだ。


秀一は指輪が食いこんで痛む指にぐっと力を入れてシーツを掴み、ベッドから床に転がり落ちて、必死に身体を起こしては倒れて膝をつきながら、寝室を飛び出した。


廊下を這いながら玄関まで逃げて鍵を開けた時、もがきながらも追ってきた柚月の手に髪をつかまれ、引きずられる。


その時だ。


玄関のインターホンが鳴った。


「助けて!」


扉の外にいるのは誰でもいい。


宅配業者だろうが、宗教の勧誘だろうが、とにかく声が届けばと秀一は叫んだ。


するとしばらくして、勢いよく扉が開いた。


「秀一!!!」


玄関から靴を履いたまま飛び込んで来て、廊下を引きずられていく秀一の腕を咄嗟に掴んだのは恵介だった。


すると、またあの黒いモヤは柚月の顔を覆い隠し、視界を遮られた柚月は、思わず掴んでいた秀一の髪を離した。


恵介は秀一を抱きかかえるようにして玄関の扉を閉め、秀一も恵介に引きずられるように足をもつれさせながら走った。


何故か、柚月は追って来なかった。


人通りの多い通りに出て、ふたりはやっと立ち止まり道の端に座り込んだ。ハアハアと息を整えるふたりに、通行人はやや怪訝な顔をしていたが、たいして気にもせず通り過ぎていく。


「...なんで...恵介」


「絵里香が連絡取れないって言うからさ...ごめん、正直お前に頼まれてたこと忘れてた」


「そうだ。俺ちゃんと頼んでたじゃん...もう...忘れてんなよ。死ぬとこだった」


「悪い、マジで」


適当なやつの友人というのはやはり適当なのだ。仕方がないと秀一は笑った。


そもそも、恵介の家に荷物を運んだあの日、もしなにかおかしなことがあったら家に様子を見に来てくれないかと頼んだことを秀一も忘れていたのだから。


そしてまさか、こんなドラマチックなタイミングで現れてくれるとも思わなかった。


そうしてしばらくふたりで道の端で座り込み、柚月が探しているかもしれないのでとりあえずどこかに逃げなくてはと、恵介が秀一の手を握って立たせようと引っ張った時だ。


ドンッ!!!!!


大きな爆発音が響いた。


さっき、ふたりが逃げて来た方向。


柚月の家のある方向から、黒い煙が立ち上った。


いや、それが黒い煙に見えたのは秀一だけかもしれない。


その黒い煙が天に向かって消えていくと、すぐに真っ赤な炎が見えた。


「...柚月」


咄嗟に、どこにそんな力があったのか不思議だが、秀一は弾かれるように立ち上がってその火の手があがる方向へと走り出そうとした。


「駄目だ!秀一!」


それを恵介が腕をつかんで、引き寄せる。


燃えているのが、柚月の家とは限らない。


けれど、あの黒い煙はきっとあれに違いない。


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「原因不明のガス爆発だってよ」


柚月の部屋に戻ろうとするところを秀一は半ば引きずられるようにして、恵介の部屋へと連れて帰られた。


その後は、まだ何もない部屋で死んだように眠っていたようで、翌日の昼頃になって様子を見に来た恵介が朝のニュースの内容を伝えた。


あの爆発と火事は、やはり柚月の家からだった。


不思議なことに、柚月の部屋以外に火の手はまわらずただただあの部屋だけが真っ黒に焼けこげたそうだ。


「残念ながらあいつは死んだ。まぁ、今のところまだ死体の身元がわからないから行方不明ということだけど...でも不思議なことがもうひとつある」


「不思議なこと?」


「部屋から見つかった死体はふたつ」


「ふたつ...」


「ひとつは白骨化してバラバラだったらしい...まぁ、知らないけど...もしかしたらお前以外にもあいつに殺されてたやつがいたのかもな」


「でも、理仁は...」


「まぁ、俺の想像だけど。一度は殺したことに後悔したんじゃないか?...だけど今度は逃がしてしまったことに後悔した...とか?」


”やっぱり殺す”


確かに、柚月はそう言った。


そして、秀一を殺して埋めるために掘り出したその白骨化した死体と共に、柚月は死んだのか。


柚月が火をつけたのか。


それとも、あれがやったのか。


あれは、柚月に殺されて埋められていた死体の怨念だったのか。


柚月に取り憑いていたように見えたけれど、もしかしたらあれは理仁や秀一に、柚月の狂気を知らせようとしていたのか。


それとも、元々、柚月の中に巣食う闇が姿を現したのか。


ただ、わかることは


柚月は死んだ。


それだけ。


「ちょっと...出かけて来る」


秀一が重い体を起こすと、恵介は「どこへ」と怒ったような口調で言った。


「まさかあいつの家に行こうとしてるんじゃないだろうな。行っても...」


「わかってるよ。もう何も残ってない。でも、確かめたいことがある」


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柚月のマンションは、恵介が説明していたとおり、綺麗に柚月の部屋だけが焼け焦げていて、その他はなにひとつ変わらなかった。


規制線が張られ、警察官の姿があり、未だ野次馬がウロウロしていた。


その中に、秀一は理仁の姿を見つけた。


「やっぱり...いると思った」


声をかけられた理仁は、ニヤッと笑って「生きてたのか」と言った。


「あんたこそ...死んだんじゃなかったのか。柚月がそう言ってた」


「死んでないよ、ほら」柚月は秀一の目の前にまた、指が欠けた手を掲げたかと思うと、すぐに視線を落として秀一の手を握り「これ俺の指輪じゃん、サイズ合ってないよ」と言った。


「返すよ、いらない」


「...まぁ、思い出にもらっとくか」理仁は秀一の指にくい込んだ指輪を力ずくで引っ張った。


すると、意外にもするっと指輪は抜けて、理仁は反対側の薬指にそれをつけた。


「柚月が僕を探すのはわかってた。だって、君に真相を知られたくないだろ?その前に探し当てて、脅すなりして口止めしようとするだろうって。だから、出来るだけ周りに理仁は死んだと言ってくれって言っといた」


「...良かったよ...お化けじゃなくて」


「いただろ?お化け」


「...いたよ。知ってたのか?あれの正体」


「いや。死体があった話は僕も初めて知ったよニュースで。でも...ずっとあれは逃げろって言ってたんだ」


「...言ってた」


「やっぱり?今思うと言うこと聞いとけば良かったな」


理仁は指輪をくるくると回しながら笑って言った。


「まぁ、お互い大変だったね。でも...柚月はただ僕たちのことを愛しすぎただけなんだ。愛しすぎて、歪んでしまっただけ。恨むつもりはないよ」


「...わかるよ。僕も柚月に出会わなかったらどうしていたかわからない」


「そう?わかってくれる?良かった。じゃ、お互いに頑張って幸せになろうね」