秀一は、少しづつ自分の荷物をキャリーケースに詰めていくことにした。


まずは、季節外れの衣類だ。


そもそも、ここは柚月の部屋だから家具や家電、雑貨などは基本的に秀一の持ち物はない。


それこそ、衣類くらいだ。


それも、ここ一年のうちのもので、たいした枚数はない。


ダウンジャケットが一枚、薄手のコートが1枚、あとはニットやトレーナーが数枚ずつ。パンツが2枚。あとは部屋着のセットアップが2セットと下着類。仕事で家から出る必要はないのでワンシーズンでそんなものだ。


夏物を詰めたキャリーケースに残りのものを押し込めば、もう荷造りは終わりだ。


けれど、あまり一気に詰めてはいけない。


まるで、慌ててこの部屋を出ていこうとしているみたいだ。


柚月には、出来るだけ気付かれずに荷物を運び出すつもりだ。


けれど


複雑な心理だ。


柚月とはこれで別れることになる。


柚月はいつも優しかったのに、それにずっと甘えて生きてきたくせに、自分勝手に、自分の人生を取り戻そうとして、出ていくのだ。


こうやって、裏切るような形で、逃げるように出ていこうとしている。


「……ごめん…」


柚月を怖いと思う反面、可哀想だと思う。


彼はいつもそうやって、愛したものに裏切られるのだ。


ひとりで置いていかれるのだ。


その時、ガチャリと玄関が開く音がした。


秀一は慌てて立ち上がり、玄関に迎えに行く。


「おかえり」


そして、いつものように上着とカバンを片付けようとそれを受け取るが、手が震えていないかと気になってしまう。


「ただいま」


当然、柚月はいつも通りだ。


指輪は、また埋め直した。


大丈夫だ。


出て行くその日まで、こうしていつも通り過ごせばいいだけだ。


それにしても、秀一の見方が変わったせいなのか今日の柚月は口数も少なく、どことなく落ち込んでいるように見えた。


それでも、柚月はいつものように「お腹減ってる?」と買ってきた食材を台所に広げながら秀一に聞いた。


「うん…でもまだあとでいいよ?」


「え?なんで?」


「柚月が疲れてそうだから、とりあえずゆっくりすれば?」


「…そう?そんなことないけど…大丈夫だよ」


柚月はニッコリと笑って見せて、手際よく食事を作り始めた。


「秀一こそ疲れてない?いつも家事とかやってくれて買い物とかも。病院にも行かなきゃいけないのに忙しいだろ?」


「別に」


テーブルに2人分の食事を並べて、柚月は缶ビールを冷蔵庫から出した。


秀一は基本的に家で仕事をしているので、どうも曜日感覚がなくなってしまうが、柚月がビールを飲むことで週末を意識する。


「あれ、まだ見える?」


カシュッと缶ビールが開く音と共に柚月が聞いた。


「あーあれね…まぁ、たまに。でも別に変わったことはないから大丈夫だよ。慣れてきた」


「慣れるもんなのか」


「悪いことはしないからね…あ、でも…」


「でも?」


「もうすぐちゃんと喋りそう」


「なんだそれ。育ててんのか?」


ふふっと笑いながら、秀一はふと思い出す。


そう言えばあれは”逃げろ”と言った。


その時は、意味はわからなかったけれどこういうことなのか。


あいつは、柚月の狂気を知っていたのか。理仁が来るよりも先にこの部屋で見ていたのか。


とすると、あれの正体は何者だ。


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「こっちの奥の部屋なんだけど…」


恵介の部屋は、働いている店の裏通りを5分ほど歩いたところにあり、もともとは同じ店でアルバイトしていた学生時代の友人と借りていたそうだ。


友人は企業に就職し、数ヶ月前から海外に赴任してしまったので家賃の支払いに困っているのだと言う。


「店が近いからさ、引っ越したくないんだけどな。お前も来たことあるよ。俺の店で飲んだ後によく連れて帰ってきてもらった…んだけど、俺ん家が汚すぎて玄関までしか来たことない」


「だろうな」


玄関を開けるとまず、靴箱がなくスニーカーが積み上げられ、台所からは生ゴミの匂いがした。


その隅には、指定日に捨て忘れたであろうゴミ袋がいくつか積み重なっている。


ゴミ屋敷のはじまりといったところだろうか。


「秀一が住むところを探してるのは知ってたんだけど、秀一は潔癖だったからやっぱ嫌がるかなと思って」


「記憶がなくて良かったよ…そうか…前から潔癖なんだ」


「料理出来ないだろ?」


「出来ない」


「それも前から。壊滅的に才能がないって言ってた」


「なんか…もう役割決まったな」


あまりに恵介が部屋が汚いと言うので、秀一は気になって恵介が休みの日に家に行くことにした。だから、ある程度の覚悟はしていたがこれほどとはと苦笑する。


「掃除していい?そのつもりで来たんだけど」


「助かる」


玄関から横に長く広めの台所と洗面所があり、その台所と並行して扉がふたつある。


玄関を入って右手が道路に面していて窓もあり、明るい。


だから、玄関を入ってすぐ目の前の恵介の部屋にはベランダと大きな窓があって明るい。一方、奥の部屋は明り取りの縦に長い窓がひとつあるだけだが、こちらの方が少し広いらしい。


前の住人が綺麗に片付けてくれたらしく、その部屋は埃を取るくらいで済んだ。問題は、水まわりだ。  


急ぎで住まわせてもらうのだから仕方ない。そう思いながらやっと潔癖気味な秀一が住める程度に綺麗になったところで、すっかり夕方になっていた。


「やば。柚月が帰ってくる」


「先に帰ってないと駄目なのか?」


「いや、別に。でもこんなに時間かかると思ってなかったからさ。言ってきてないんだよな」


「お前らさ、もう別れるんだろ?」


「うん、まぁね」


「だったらそんなに気を使う必要あるのか?」


「まぁ……出ていくまではね?穏便にしたいじゃん。俺が勝手に出て行くんだし」


そう言い残して、本当はキャリーケースの中身を部屋に備え付けのクローゼットへ移し替えるまでの予定ではあったが、とりあえず次回にしようとキャリーケースごと置いて帰ることにした。


「あ、そうだ...ひとつ頼みごとがあるんだけど」


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その日の夜のことだ。


無事に柚月が帰るまでに帰宅し、ふたりで晩御飯を食べ終え、柚月が風呂に入っている時に恵介から電話があった。


忘れ物でもしたのかと、電話に出る。


「どうした?」


「…落ち着いて聞けよ?秀一」


落ち着けと言うその恵介の動揺ぶりが電話越しに伝わって、なんのことかという不安よりも、可笑しさがこみあげた。


「なんだよ」


「凛子ちゃんが目を覚ました」


「え…」


「絵里香に連絡してくれって言われたんださっき。ほんとにさっきだよ。でも、まだすぐには会えないらしい」


「いつ会える?」


「また連絡するって。今度は絵里香から連絡来ると思うから待ってて」


「わかった…」


いざとなると、足が震えた。


あんなに、凛子が目を覚ますことを待ち望んでいたのに。


会いたいというより、会うのが怖い。


彼女は、秀一を見てなんと言うだろう。


凛子が事故を起こし、秀一が行方不明となった、その誰も知らない空白の時間になにがあったのか、知るのは凛子だけなのだ。


真実が、明らかになるのだ。


「どうした?」


しばらく、携帯の画面を眺めながら立ち尽くしていた秀一に、風呂から出てきた柚月が声をかけた。


「凛子が目を覚ましたって…」


柚月は秀一に微笑みかけて「そうか。良かった」と言った。


「ちゃんと本当のことがわかるといいな」


「…うん。ちょっと怖いけどね」


「大丈夫。お風呂入っておいで」


絵里香からいつ連絡が来るかわからないので、秀一は洗面所の洗濯機の上に携帯を置いて風呂に入った。


良かった。


大丈夫。


柚月はそう言って励ましてくれる。


やはり、あの男が言ったことが信じられなくなってくる。


ひっそりと逃げようとしている自分に嫌悪感もわいてくる。


髪を拭きながら、携帯を見るがそんなにも早く連絡が来るわけがなく、秀一は携帯を握りしめながら洗面所を出てリビングに向かった。


「あれ?」


廊下の向こう、リビングへの扉は一部すりガラスになっているのだが、すりガラスの向こうが真っ暗で部屋の電気がついていなかった。


風呂に入っている間に、柚月はまたどこかへ出かけたのかと玄関を見るが、仕事用の靴も、スニーカーも、近所へ行く用のサンダルも全てきちんと狭い玄関の端に揃えられている。


「柚月?」


そう呼びかけながら、リビングの扉に手をかけるとその隙間から黒い煙のようなものが秀一の手に絡みついた。


「え…」


慌てて扉を開けると、部屋の中は真っ暗だ。


けれど、真っ暗なのは電気がついていないからではない。


濃く、真っ黒なモヤが部屋いっぱいに充満しているのだ。


そのモヤは、いつものように人の形を保つことなく、ただただ部屋の中を漂うばかりだったが、秀一を見下ろすように天井近くにふたつの穴があり、それが秀一を見つけると、部屋中の真っ黒な闇がザアッと一気に秀一の身体を目掛けて襲いかかった。


逃げる間もなく秀一はそれに包まれたが、ただそれは一瞬だった。


生臭いような匂いに包まれたかと思うと、やはりいつものように天井を目掛けて立ち上り、吸い込まれていく。


「秀一?」


それがいなくなると、リビングはまた明るい光に包まれていて、柚月がソファに座って秀一の方を振り返っていた。


やはり、彼には見えていないのだ。


それにしても、今日のあれは異常だ。


天井を見つめて呆然とする秀一に「またか」と柚月が聞いた。


「…うん…でももう消えたよ」


「なかなか手懐けられないもんだな」


「ペットみたいに言わないでよ」


笑いながら、秀一がテーブルを挟んで柚月と向かい合って座ろうとすると、柚月は「ちょっと隣来て。話したいことある」と言った。


ふたりきりなのだから、別に近づいて内緒話することもないだろうと思ったが、秀一は素直に柚月の隣に座る。


「住む所、見つかったの?」


「え?まだだよ」


「キャリーケースどこやったの?」


「…柚月の?」


「いや、秀一の。中に夏物の服詰めてあっただろ?」


「…見たの?中」


「どこやったの?住む所も決まってないのに。どこに荷物運んだの?」


「…えっと…ごめん。本当は住む所決まった」


「なんで俺に内緒?」


「内緒…ていうか…ごめん。言い出せなくて…」


「夜逃げするみたいじゃん。急にいなくなるほうが傷つくよ」


「…そうだね。ごめん」


柚月はごく淡々と、怒る訳でもなかった。


「タバコでも吸おっか」


柚月は立ち上がり、窓を開けていつものように庭に足を放り出すようにして座った。秀一も、それに続いて隣に座る。


心臓が飛び跳ねそうに波打っていた。


「そんなに、俺のこと嫌だった?」


煙を深く吸い込み、ため息とともに吐き出して柚月は言った。


「違うよ。出ていくのは…寂しいよ。それは本心だよ」


「理仁に会ったって言っただろ?」


「…うん…ここでね。警察呼んだ時ね」


後日、理仁に会って話したことは柚月には気づかれていないはずだ。


「なんでそんな嘘つくんだよ」


「嘘?なんで?そんなわけないじゃん。そんな嘘なんでつかなきゃいけないの?警察まで呼んで」


「この家から出ていきたいからだろ?早く出て行く言い訳にしたかったんだろ?」


「何言ってんの?ほんとに。いきなり変だよ柚月…」


秀一が柚月の隣から立ち上がろうとした時、柚月は突然秀一の顔を目掛けて手を広げ、口を塞いでそのまま秀一の頭を床に打ち付けた。


「誰に聞いたの。理仁のこと。指がないことも!どこで聞いた?」


コンクリートの塀の向こうは、まだ人通りのある時間だったが、それを気にすることなく、柚月は声を荒らげる。けれど、口を塞がれた秀一は助けを呼ぶことも出来ず、ただ打ち付けられた後頭部が鈍く痛む。


「理仁がいるはずないんだよ。あいつは死んだんだ」


それを聞いた秀一の目が大きく見開いて柚月を凝視すると、柚月は笑って「俺が殺したんじゃないよ。あいつはここを出て行ったあと事故で死んだ。俺も知らなかったんだ」と言った。


理仁が秀一と遭遇したあの日から、柚月は理仁の行方を追った。


秀一に、いつか真実を告げられるかもしれない。


だから、理仁に会って謝るなり、脅すなり、方法はなんでもいいから口止めをしようとした。


しかし、理仁の身の回りを探った結果わかったのは、理仁はほんのひと月ほど前に事故にあって死んだと言う事実だった。


ならば、秀一の会った男は誰だ。


「…出ていかせないから」


柚月はポケットから、泥だらけになった指輪をふたつ取り出して、秀一の顔の傍に転がした。


顔を塞がれて呼吸が出来ず、意識が朦朧とする秀一を部屋の中に引きずり戻し、柚月は更に胸の上に馬乗りになった。


そして、秀一の顔を覆った手を離して、秀一の手を取って泥だらけのままの指輪をその薬指にはめ、もうひとつを自分の指につけた。


「お古でごめんね…汚れちゃったし、今度また新しいの買ってあげるよ。理仁」


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「出ないんだけど」


絵里香は電話をかけながら、カウンターの天板を指でトントン鳴らして苛立った。


「俺は言ったよ?かかって来るって」


カウンターの内側で恵介が、絵里香に梅酒のロックを差し出して言った。


「彼氏さんは?なに飲む?」


「オレンジジュースあります?」


「酒飲めないの?」


「あんまり」


迅はグラスに注がれたオレンジジュースに口をつけながら、絵里香のイライラした様子を眺め「寝てんじゃない?」と言った。


「まだ10時よ?子供じゃないんだから」


凛子が目を覚まし、1日かけて検査などをした結果、特に後遺症なども見当たらず、身近な人間ならという条件付きで面会が許されることになった。


両親にも許可を取り、秀一を凛子に会わせようと、それを一刻も早く絵里香は秀一に伝えたいのだ。


なのに、さっきから何度電話をしても出ない。


「柚月にかけてみるか?」


迅がそう言うと、絵里香は頷いて一旦電話を切り、梅酒のロックをゴクゴクと飲み干した。


「…柚月?今なにしてる?秀一そこにいない?…うん、あ、そうかわかった」


迅の電話に、柚月はすぐに出たようで、迅は絵里香に目配せして「もう寝てるって。どうする?」と言った。


「叩き起こせって言って」


「…叩き起してくれってさ…え?なに?…柚月?柚月、どうした?」


「どうしたの?」


迅は怪訝な顔で首をかしげ、携帯を見つめた。


「いや…起こしてくれって言ったら、なんか…切れた。ガンって携帯落っことしたみたいな音して」


「なにそれ。もう1回かけて」


しかし、今度は何度コール音がしても柚月は電話に出なかった。